我が城で踊れ潜入者 


第八章 踊り続ける舞踏者達(前編)


 情報の漏洩を完全に防ぐことなど出来はしない。隠蔽工作を行ったとしてもその規模
が大きくなればそれ自体が余計な虫を引き寄せかねない。
 ならばこそ、無視できないような情報―ルーン王女暗殺計画をわざと漏らし、それを
囮に別の計画を進行させると言う方法を採ったのだ。このことは暗殺計画に携わってい
た者たち、昼間に失敗したあの男ですら知らないことだった。彼らはあくまで彼らの計
画を行っていた。要するに彼らの計画に便乗し、こちらの計画のための生贄になっても
らったわけだが。しかし、今、目の前にファトラ王女が立っている以上、それも無駄だっ
たということになる。
 リリィは思わず下唇を噛んだ。
 その表情を見て、なのか、ファトラが口の端を持ち上げた。目には明らかに愉悦の表
情が浮かんでいる。リリィには、それは人間に向ける物と言うより、むしろ、網に掛かっ
て陸揚げされた魚に向けるような物に思えた。
「アレーレが嬉しそうに話してくれたぞ。そなたの体がどんなに美味であったか。それ
はもう事細かくのう。」
「な?」
 ファトラの唐突な言葉にリリィは思わず声を上げた。挑発だと言うことは判っていた。
だが、無視するのにも抵抗を感じてリリィは問いを返した。
「あの時は怪我で抱き損ねたから、今ここで犯そうとでも言うの?」
「何か勘違いしておるようじゃな。妾と夜を共に出来る資格があるのは美少女のみじゃ。」
 ファトラは何の迷いもなく、そう断言してきた。もちろん挑発でもあるのだろうが、
本当にそう思っていると言うことがファトラの表情からはっきりと伝わってくる。
 自分の器量が人並みはずれて良いと思っていたわけではないが、少なくとも人より劣っ
ているつもりはなかった。自分のプライドに決定的な傷が刻み込まれたのを感じ、リ
リィは左手で胸元を押さえた。
「真の美少女とは心身とも美しい者を言うのじゃ。上辺だけをいかに取り繕うとも根腐
れしておっては何の意味も無かろう?」
「…何が言いたいの?」
 更に追い打ちを賭けてくるファトラに対し、リリィは押し殺した声で発した。それを
意にも介さず、ファトラは変わらぬ調子で答えてくる。
「幸運にもアレーレをたぶらかして、そのテクニックを堪能できたのじゃ。そなたのよ
うな者の冥土の土産としては過ぎたる物…アレーレにたっぷりと感謝しながらあの世へ
行くがよい。」
 そう言い終わると同時にファトラの表情から笑みが消えた。軽く拳を作り、浅く腰を
落とす。
 まだ一足飛びに懐に入り込めるような間合いではないし、見たところファトラは飛び
道具を持っているわけではない。こちらがどう動くか待っていると言った風だった。
(甘いわね。私は暗殺者なのよ。)
 相手につきあう必要など無い。どんな手を使っても結果的に相手が倒れていればそれ
でいいのだ。出来るだけ最小限のリスクで。ファトラはこちらの目をまっすぐ見据えてきて
いる、それはリリィにとって好都合なことだった。
 ファトラの視線を正面から受け止めて、リリィはファトラに問いかけた。
「ファトラ姫、足が重く感じない?」
「何じゃと?」
 何を言っているのか判らない、と言った口調でファトラが問い返してくる。視線は全
く外さずに。
「そう言っている間に腰まで石の様でしょう?」
 ファトラは微動だにせず、こちらを見据えてきている。リリィは構わず続けた。
「ほら、もう指一本動かない♪」
 ありったけの笑顔を浮かべて―ファトラにはどう映っているのかは知らないが―リリィ
はそう断言した。ファトラの顔にはっとした表情が浮かぶ。
 相手の目を見ることは対人戦闘を行う上で最も基本的なことだ。特に序盤、ある程度
の間合いを保ち、相手の出方をうかがっている、今のような状況では相手の一挙手一投
足に細心の注意を払う物だ。
 相手に暗示をかけるのにこれほど適した状況がそうそうある物ではないだろう。
 暗殺者を前にして体の自由を奪われた者が見せる怒り、絶望、恐怖、それらが入り交
じった表情を見ることはこの上もない至福だった。腕に覚えがある者ほど、その表情は
滑稽な物に見える。ファトラ王女はどんな顔を見せてくれるのだろう?
 奥歯を噛みしめて感情が顔に出ないようにしているのだろうファトラに向けてリリィ
はゆっくりを歩き出した。右手の針を誇示するように目の前に掲げて。
(そのプライドが何処まで持つのかしらね。)
 それもまた楽しみの一つだと思いながら一歩一歩、しかし確実にファトラに近づいて
いく。残念だが、そんなに長い間暗示の効果は持続しない。娯楽の時間は限られている
のだ。
 とうとう目の前にまで来てもファトラはその表情を崩さなかった。だが、その顔をか
なりの量の汗が伝っているのをリリィは見逃しはしなかった。
「大した精神力だわ、ファトラ王女。でも、残念だけどこれでお終い。卑怯だと思って
くれてもいいわよ。ただ、それ以上に貴女が迂闊だったのよ。」
 リリィは左手をファトラの頬に添えてそう囁くと針をファトラの首筋に押し当てた。
「さようなら。ファトラ王女。」
 別れの言葉を告げて針を持つ右手に力を込めようとした刹那、腹に何かが触れた。そ
れが何であるのか気づくよりも早く、体の方が反射的に後ろに飛び退こうとする。自分
の足が床を蹴る音に重なるようにして足下から別の音がもう一つ鳴り響くのが聞こえた。
 視界が急激に流れていく。自分の体が宙に浮いていることは自覚できたが、自分がど
ういう姿勢になっているのかが全く理解できなかった。視界の端に映っているのは壁な
のか床なのか―よもや天井と言うことはないだろうが―それすらも判らない。
 そんな状態で有効な受け身が取れるはずもない。とっさに体を丸め、頭を腕で抱え込
むのが精一杯だった。容赦のない衝撃と共に二度ほどバウンドしてから壁に叩きつけら
れ、ようやく体が止まる。
 自分自身に施した暗示によって、身体能力の向上を行い、痛覚を誤魔化してあるとは
いえ、体が受けるダメージそのものが全くなくなると言うわけでもない。本来ならば痛
みで動けなくなっているのだろう体を強引に動かして立ち上がるものの、膝が完全に笑っ
ていた。気を抜けば崩れてしまいそうな体を壁に預け、視線だけでファトラを捜す。
 左斜め前方、先程まで自分がいた位置に右拳を突き出した姿勢のままのファトラが立っ
ていた。
「もう…私の暗示から…逃れたというの?いくら何でも早…すぎる。」
 追撃をしてこなかったところを見ると完全に暗示が解けたというわけでもないのだろ
うがそれにしてもこの早さは異常と言えた。今まで、自分の暗示を5分以内に解いた者
はいないというのに、まだ2分も経たない内にこれ程の反撃までしてくるとは。
 ぎこちなさを残しながらファトラが拳を引き戻す。
「しっかりせぬか。」
 確かにそうつぶやいて、ファトラが自分の左肩に手刀を落とすのが見えた。
「ウニャッ!」
 どこからか動物の鳴き声のようなものがあがると同時にファトラの動きからぎこちな
さが消える。リリィの方は膝のふるえがまだ取れてはいなかった。
「妾が何の準備もなくこの場にいるとでも思うたか?いかに強力な暗示であろうと、あ
らかじめ判っておればそれに対抗する術はいくらでもあるのじゃ。」
 体をほぐすように軽く動かしながらファトラが告げてくる。
「ついでに言えば、そなたがフレア卿にかけた後催眠の方も既に無効になっておるぞ。」
 衣類を一枚一枚脱がしていくように、ファトラの手で自分の手の内が剥ぎ落とされて
いくのをリリィは冷静に聞いていた。今は一刻も早く体を回復させることが先決だ。
(そのためにはこの会話をなるべく長引かせるべきね。)
 そう判断し、リリィは口を開いた。
「フレア卿には自害してもらう予定だったけど、仕方ないわ。後でどうにかしましょう。」
 言いながら、武器の確認をする。最初に持っていた針はどこかに落としてしまった。
予備の針もホルダーの中で変形してしまったらしくどれも引き出すことが出来ない。手
首のリールの鋼線、小型ナイフ数本…これらは大丈夫そうだ。最後に左手の腕輪をちら
りと見てからファトラに視線を戻す。
「全ての罪をフレア卿、いや、フリドニアに押しつけて、と言う訳か。」
暗示に警戒しているのだろう、こちらを見てはいるが微妙に視線をはずすようにして、
ファトラが告げてくる。
「こちらの手の内は全てお見通しというわけ?恐れ入るわね。」
 リリィは軽く肩をすくめた。ファトラ王女がここにいるのならば、今更何の意味もな
いことだ。
「不満があるのなら。堂々と同盟会議の席上で提言すればいいものを。」
「それが出来ないから私のような人間が必要なのでしょう?」
「いきなり暗殺に及んでくるのは性急過ぎだと思うが。」
 当然と言う口調でのリリィの問いかけに、感情を抑えるように静かにファトラが答え
てくる。
「仕方ないでしょう?首筋にナイフを当てられたままでは話し合えないもの。まずはナ
イフを引っ込めてもらわないとね。」
 リリィはそう言いながら、右手の人差し指を自分の首筋に当て、掻き切るようなゼス
チャーをした。
「ロシュタリアがそなたらを威圧しておるというのか?」
 ファトラがうめくように声を低くする。
「とぼけているつもり?貴女ほどの人ならとっくに気付いているでしょうに。」
 口調を若干強めてそう言うと、リリィは左手の腕輪の宝玉に指を走らせた。
 宝玉が深紅の輝きを発するのと同時に左腕をファトラに向けて突き出す。宝玉からあ
ふれた光がそのまま紅蓮の奔流となり、驚愕の表情を浮かべたファトラをあっさりと飲
み込んだ。
 ファトラが立っていたその場所で、無数の腕を振り乱すようにして紅蓮の炎が踊り狂っ
ていた。ダンスパートナーが踊り疲れて頽れるまで、それは休むことなく続き、そして
力尽きた彼女をエスコートして天へと登っていくのだ。
 この世にこれ程、荘厳で美しいダンスは他にはないだろう。肌に感じる熱気も心地よ
く、魅入られたような微笑みを浮かべたまま、そのラストダンスの最後のそして唯一の
観客として、リリィはそれを見つめていた。

後編に続く)


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後編に続く

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