「ファトラ様。」
「何じゃ?」
扉を閉めると同時に話しかけてきたアレーレに歩調はそのままで返答する。
「いくら何でも言い過ぎなんじゃないかと…あれではいくら誠様でも落ち込んじゃいま
すよ。」
「あの楽天主義者にはあのくらい言わんと通じんじゃろう。あんな目にあったと言うの
にまだあのガラクタをどうにかしようというのじゃからな。所詮、あのガラクタに出来
ることなど自分自身からの逃避に過ぎぬ。」
「自分からの逃避…ですか?」
「自分と他人を入れ替えることで他人の姿を手に入れ、今までの自分と自分に関わる全
てを捨てる、そう言うことじゃろう?だが、結局、その他人の運命に捕らえられること
になるのじゃ。自分自身からすら逃げた者が他人の運命を背負って生きていけると思う
か?」
「意味無いですねぇ。」
アレーレが同意してくる。口調があまりにも軽いのでちゃんと理解しているかどうか
少々疑問に感じたが、ファトラはそのまま続けた。
「イフリータについてもそうじゃ。あやつにイフリータの為とはいえ他人を犠牲にする
度胸などあるのか?イフリータ自身がそれを望むかどうかは別としてな。」
「確かに誠様は自分のために人を犠牲に出来るタイプじゃないですねぇ。」
「先のことばかり見ていて足下の小石につまずいて大怪我するタイプじゃな、あれは。
一度、徹底的に言ってやろうとは思っておったのじゃ。」
「ファトラ様、案外、誠様のこと心配なさっておられるんですね。」
アレーレのその突拍子もない言葉にファトラは思わず歩を止めて振り返った。アレー
レも数歩送れて歩を止める。その送れのせいで、二人の距離はほぼ無くなっていた。
「なんで、そんな話になるのじゃ?妾はただ、神の目の解析が遅れる事によって発生す
るいろいろな問題をだな…」
反論しようと思わず顔を近づけたのが失敗だった。アレーレの笑顔を見てると深刻な
話をしているのがばかばかしくなってくる。彼女の笑顔にはそう言う魔力があった。
「判った、そう言うことにしておこう。」
反論するのが全く無駄だと悟ってファトラは顔を上げた。そのまましばし天井を仰ぐ。
話は完全に自分の意図とは別方向に進んでしまっているし、わざわざ方向修正してまで
続けたいとも思わなかった。そう思い至って、アレーレに視線を戻す。アレーレはまだ
にこにこしながらこちらを見上げてきていた。
「アレーレ、妾はちょっと寄るところが出来た。先に戻って、姉上に伝えてくれ。」
アレーレは一瞬きょとんとした表情を見せたが、すぐに何かに気づいたようにうなず
いた。
「はい、じゃあ、先に行ってますね。」
そう言うと、アレーレは素直にぱたぱたと走り去っていった。それを見送ってから、
また天井を見上げる。話を切り上げるために言ったことではあったが嘘というわけでも
ない。
「まあ、ちょうど良いな。」
そうつぶやいて、ファトラはそちらに足を向けた。
牢の中は、思った以上に居心地が悪かった。天井付近にある窓から入ってくる光はこ
の狭い空間すら満足に満たすことが出来ず、かえって惨めな陰影をもって、虚しさを演
出している。よどんだ空気は肌に不快にまとわりつき、呼吸する度にのどの奥に不快感
を残していく。堅く冷たい石造りの床はどう考えても持病の腰痛に良くはないだろう。
コモン=ド=フレアは、そんなことをただ漠然と思いながら視線を虚空に漂わせてい
た。時間だけが無意味に流れ去っていく。今の内に少しでもましな弁明の台詞を考えて
おくべきなのかも知れない。いや、目の前で自分の従者が事もあろうに他国、それも同
盟首長国の王族に襲いかかったのだ。どんな言い訳ができるというのだ。
「私は、何も…存じませぬ。」
自分のつぶやきに苦笑すら出来ずに視線を泳がせ続ける。子供でももっとましなこと
を言うだろう。だが、自分の心を代弁するのにこれ以上相応しい言葉はどうしても思い
つかなかった。
その思考とも言えない物思いは、扉を叩く音で中断された。もう食事の時間なのだろ
うか?それとも…。こちらからは扉の向こうを伺うことは出来ない。フレアはその音の
主の言葉を待たざるを得なかった。
「ご機嫌はいかかですか?フレア卿。」
フレアは聞こえてきた言葉、と言うより声そのものに耳を疑った。
「そのお声は、まさか!?」
思わず立ち上がって扉に駆け寄る。
「妾の質問に答えて頂きたい。それ以外の発言は許しませぬ。」
喉まで出かかった弁明の言葉を封じられ、空気だけが半開きになった口から抜けてい
く。息を吸わなければ新たな言葉を紡ぐことは出来ない。その一瞬の空白に相手の次の
言葉が滑り込んできた。
「お嬢さんはお元気ですか?」
牢の中は、思ったよりも悪くはなかった。外から差し込んでくる光は十分な物とは言
えなかったが、壁のあちらこちらに植えられている発光植物がそれを補っているため、
本を読める程度の明るさは保たれている。湿度が多少高いようだが、それはまあ、仕方
がないことだろう。そのかわり、埃っぽいと言うことはなかった。
牢の中としては上等な環境ではある。少なくとも自分の知っている牢の中では一番だ。
冷たい石の床に直接腰を下ろさなければならないのはいつも通りと言えばそうだが、ま
あ、牢にそこまでの居心地の良さを求めるのは見当違いという物だ。
ともあれ、行動を起こすにはまだ早い。かといって、床に座ったまま体を冷やしてし
まっては元も子もない。そこまで考えて彼女はゆっくりと立ち上がった。
右腕を上げて裾をめくると手首にはめられた腕輪が露わになる。腕輪には深紅の大粒
な宝玉がはめ込まれていた。その宝玉を左手の人差し指と中指でさっとこする。
それに応えるように宝玉が輝いたのを確認してから彼女は右腕を手近な壁に向かって
突き出した。
「ウォーミングアップにはちょうどいいわね。」
彼女がそうつぶやくと同時にまた腕輪の宝玉が輝き出す。輝きは光の奔流となり、そ
して、彼女の右腕が示す目標物、壁へと突き刺さった。
壁は打ち抜かれることはなかったものの徐々にその温度を上げていった。その熱は床
にも伝わり、冷たさが和らいでいく。
「これでしばらくは大丈夫ね。」
以前、床を直接熱して火傷しそうになったことなどを思い出して、彼女は掌で床の温
度を確かめてから、ゆっくりと腰を下ろした。
牢の見張りは正直、退屈だった。特に人通りの絶えた真夜中は。
牢の中にいるフリドニアの大使が脱獄することなど立場上、まず考えられない。侍女
の方は一時的な拘留なので脱獄などする意味がない。一番危険だと思われた従者はここ
ではなく霊安室にいる。
なら、見張りなど一人で十分だろう、と持ちかけた相棒は詰め所で仮眠中だ。2時間
交代で見張りをしようということで話はまとまったのだが、こんな退屈な思いをするの
なら二人で世間話でもしていた方が良かった。
「看守さん。」
その声は、普段なら聞き落としかねない程小さかったが、刺激に飢えていた彼の聴覚
はそれを逃しはしなかった。言うまでもなく牢の中にいる侍女の声だ。実際に声を聞く
のは初めてだが。
「何だ?」
退屈しきっていた彼は、それに返答した。大使ならともかく侍女の方ならいい退屈し
のぎになるだろう。
「私たちはこれからどうなるのですか?」
「フリドニアと連絡が付き次第、背後関係の調査と両国の交渉が行われて、無関係と言
うことならあんたは解放されるだろうが、フレア卿はそうはいかないだろうな。恐らく
同盟の公開裁判にかけられるのだろうが…まあ、どうなるかは両国の交渉次第だ。」
「彼は?」
「ファトラ様を襲った奴か?手当はしたのだが…どちらにしろ間違いなく死罪だったが、
ロシュタリアとしては重要な情報源を失ったことになる。」
「…そうですか。残念でしたね。」
「あんたは残念じゃないのか?」
彼女の言い方に違和感を覚えて彼は問いかけた。
「仲間が死んだのは残念ですけど、彼とはそんなに親しかった訳じゃありませんし。」
そんな物か、とも思う。しかし少し冷たいんじゃないだろうか?と彼は思った。
「看守さん、一人なんですか?」
「もう一人いるんだが…今は席を外している。そうじゃなかったらあんたとこうして話
は出来なかったな。」
「そうですか。幸運でした。ね、それなら看守さんの顔見せて下さいません?」
女にそう言われて悪い気はしない。そのくらいなら問題ないだろう、そう考えて彼は
覗き窓のブラインドを開けた。
覗き窓の向こうに、彼女の目があった。それ以外の部分は…全く目に入らなかった。
視界の全てが彼女の瞳に占められている。そのことに疑問を感じるよりも早く、彼の意
識は深い闇の中に沈み込んでいった。
目的の部屋はひっそりと静まり返っていた。ただし、それは耳が痛くなるような冷た
い静寂ではなく、生ある物の気配の混じった温もりのある静かさだった。少なくとも、
ここがただの空き部屋では無いという証明だ。
扉の前にいた衛兵は既に足下で熟睡している。念を入れて麻酔薬まで注入したのだ。
そう簡単には目覚めまい。
「後は仕上げだけ…」
そうつぶやくと彼女は、動きづらい侍女の衣装を脱ぎ捨てた。その下から特殊な繊維
で編み込まれた薄手のスーツが現れる。各所に仕込まれた装備品を点検した後、彼女は
音を立てぬよう、慎重に扉を開け、部屋に足を踏み入れた。
カーテン越しの月明かりの中に化粧台や衣装入れと言った家具や調度品が幻想的に浮
かび上がっている。そして右手の壁際の中央付近にフードがかかったベッドがあった。
ゆっくりとそのベッドに歩み寄り、左手でフードをまくる。右手に10cm程の長さの
針を構えて。
「!?」
眼下のベッドは、無人だった。瞬時にそう判断できたのは、この上なく単純だ。ベッ
ドの上にはシーツしかなかったから。それも全く乱れのない白いシーツが。
「どう言うこと?」
声を出して自問し、彼女はその答えを探そうと考えを巡らせる。部屋を間違えた?そ
れなら、部屋の前にいた衛兵は?シーツが乱れていないと言うことは、まだベッドを使っ
ていない?毛布がないのは?毛布を羽織って、出歩いている?
「ベランダ?」
たどり着いた結論を口に出し、彼女はベッドから離れようとした。その瞬間、彼女は
唐突に違和感を覚えた。部屋の中に気配がある。今まで、王女がベッドに寝てるものと
思っていたので、何の疑問も抱かなかったが、ここにいないとすると…
後ろに全力で跳んでベッドから離れ、彼女は改めて部屋の中を見回した。
広間と呼んで差し支えのない程の広さの部屋。その、ちょうど自分と反対側の壁際に
人影があった。足下に先程までかぶっていたのだろう毛布が落ちている。
漆黒のボディスーツの上に毛皮のような物をまとった、その長い黒髪の女は、静かに
こちらを見つめていた。それはむしろ嵐の前の静けさと言った印象だったが。
「何で、貴女がこんな所にいるのです?ファトラ王女。」
「妾が王宮の何処にいようと咎められるいわれはないじゃろう?それが裏で出回ってい
る見取り図ではルーン王女の寝室になっている部屋であろうと。」
誰もが知っている当然な事を告げた、と言った口調でファトラが返答してくる。
「それより、そなたがここにいることの方が余程不自然なのではないか?リリィ。」
自分の名を告げられて彼女―リリィの表情に動揺が走る。
「そんな…一体いつから気づいていたの!?」
「偶然通りかかった道で、たまたま襲われていた少女を助けて、賊の懐を探ったら、ル
ーン王女暗殺計画書が出てきました、などというのはいくら何でも出来過ぎじゃろう?
演技はともかく脚本がまるでなっておらん。何より違和感があったのはあのときのそな
たの表情じゃ。まるで人形のようじゃったぞ。」
強力な自己暗示により、顔や体格まで有る程度自在に変えることが出来る。それがリ
リィの特技だった。そしてそれはもう一つの特技を活用するに極めて有効なものだ。し
かし、今回はそれが裏目に出たことになる。
「…そこまで気づいていて今まで騙された振りをしていたというの?」
苦々しげな表情を浮かべたリリィに対して、ファトラの表情はまだ穏やかなままだっ
た。少なくとも表面上は。
「事が事だけに推測だけで動くわけには行かなかっただけじゃよ。じゃから、計画書の
件はロンズに一任し、妾は妾で情報収集していたわけじゃが、どうやら無駄ではなかっ
たようじゃのう。」
そこで一旦言葉を切り、大きく息を吸ってからファトラはこちらに向けて一歩踏み出
してきた。
「何より…姉上を暗殺しようなどと言う不埒者は妾自身の手で始末せぬと気が収まらぬ
からのう。」
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第8章に続く
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