誠が、自分の部屋に戻ったのとほぼ同時刻、菜々美も自分の部屋に戻ってきていた。 菜々美の部屋は、誠たちの部屋のある棟とは王宮広間へと続く回廊を挟んでちょうど 反対側にある、侍女棟の一室にあたる。 早速パジャマに着替えてベッドにダイビングした菜々美は、今日の誠とのデートを思 い返していた。 「今日は、ディナーまでで終わりだったけど、次の機会には誠ちゃんに…」 そうつぶやいて、菜々美は真っ赤になった頬に両手を当ててふるふると首を振った。 「きゃー☆私ったら、私ったら!」 菜々美はそのまま、一分ほど首を振りながらくねくね踊っていたが、扉がノックされ たことに気づいて踊るのをやめた。 「はぁーい。どちらさまですかぁ?」 菜々美は首をさすりながら、ドアの外に問いかけた。すぐに返事が返ってくる。 「夜分遅く失礼します、菜々美様。アレーレです。」 「アレーレ?どうしたのこんな夜更けに。」 菜々美は、扉を開け、部屋の前に立っていた貫頭衣姿のアレーレに問いかけた。 「ファトラ様がいらっしゃらないんです。それで、菜々美様の部屋から、物音がしたも のでこちらにいらっしゃるのかなぁと思って。」 「ファトラさん?ここにはいないわよ。ほかの侍女のとこに行ってるんじゃない?」 「それなら私を連れてってくれるか、少なくとも一声かけてくれます。」 狼狽を隠しつつ、そう答えた菜々美にアレーレは、不満げに身をよじりながらつぶや いた。 「菜々美様の所じゃないとすると、あとは、誠様のとこくらいしか…」 そこまで聞いて菜々美は、いきなりアレーレの胸ぐらをつかみあげた。 「アレーレ、どういうことよそれ!?」 「い、痛いです菜々美様、落ちついてください。」 アレーレが抗議の声を上げてくるが、菜々美はきっぱり無視した。 「ど・う・い・う・こ・と?」 菜々美の異様な迫力に気圧されて、アレーレがしどろもどろに答えてくる。 「どういうことといわれましても、そういうことなんじゃないかと…」 「ファ、ト、ラ、さーん!」 菜々美は、アレーレをぽとりと床に落とし、そう叫びつつ、誠の部屋に向かって全力 疾走を開始した。 「あ、菜々美様、待ってください、私も行きます!」 したたか打った腰をさすりながらアレーレもよろよろと誠の部屋に歩き出した。 誠の部屋の前についた菜々美は、ドアをノックするのももどかしく、そのまま部屋に 躍り込んだ。 「誠ちゃん、無事!?」 叫びつつ、部屋の中を見回した菜々美の視線が、ベッドの上の人影をとらえる。すぐ さま菜々美は、ベッドへと近寄っていった。そして上体を起こしかけていた、上に覆い 被さっている方の人影の肩を強引に手前に引き寄せた。 その人影はバランスを崩してもう少しでベッドから転げ落ちそうになりつつも、何と かベッドの端で踏みとどまった。だが、体が反転したせいで人影と菜々美は、向き合う 格好となる。 「菜々美ちゃんやないか、いきなり何するんや!」 人影―誠が抗議の声を上げる。 「え?誠ちゃん?」 上にいる方がファトラだと思いこんでいた菜々美は予想外の出来事に動きを止めた。 「何ゆうてるの?どこからどう見ても僕やないか。」 誠は完全に菜々美に向き直り腕を広げて、自分の体を示した。 短い髪、ほっそりとした首筋、細身だが引き締まった体、シャツがはだけているせい で露わになっている胸元には当然、乳房などない。かわいい形のおへそ、そしてその更 に下の…菜々美は顔を真っ赤にして視線を誠の顔に戻した。 「た、確かに男の子の誠ちゃんだわ。と、いうことはそこのいるのは…」 菜々美は、誠の肩越しにベッドに横たわっている人物を見てみた。 彼女―ファトラは小刻みに震える自分の体を抱くようにして胸元を掻き合わせていた。 横を向いた顔は夜目にもわかるほど真っ赤で、その頬には幾筋もの涙のあとが光ってい る。 でも、これじゃまるで… 「あはは、なんだか誠ちゃんがファトラさんを襲っていたみたい。」 「菜々美ちゃんもそう思う?」 「は?」 否定してくれることを期待して口に出した言葉をあっさりと肯定されて、菜々美は硬 直した。そんなことはお構いなしに誠は更に続けてくる。 「ファトラさんから誘うてきたくせに、いざとなったら、急にしおらしゅうなってもう て、僕もそんな気がしてきてたとこや。でも、これはこれで何か燃えるもんが…菜々美 ちゃん?」 菜々美の体がぷるぷる震えだしたことに気づいて誠が声をかけてくる。 「…そんなことはどうでもいいわ…」 菜々美は、ゆっくりとした動作で誠の首に手をかけた。 「問題は、私とデートしたその日のうちにファトラさんとこういうことをしてるって事 なのよう!」 菜々美は絶叫しつつ誠の首を思いっきり締め上げた。 「苦し。菜々…美ちゃ、ん…離……死、んで…ま…う………」 ものの数秒で誠の体から力が抜ける。それを確認した菜々美は、誠をぽとりとその場 に落とし、ベッドに横たわったままのファトラに声をかけた。 「ほら、ファトラさんもいつまでも寝てないで部屋に戻ってよね!」 「…そうする。悪かった。」 ファトラは、ゆっくりと起きあがり、服装を整えたあと、部屋の入り口で、入るに入 れずに立ちつくしていたアレーレに付き添われて、帰っていった。口調にも態度にもい つもの覇気がない。そんなに誠に襲われかけたことがショックだったのか。 ともあれ、反撃がなかったことに拍子抜けした菜々美は、妙な違和感を覚えつつも、 気絶したままの誠に毛布をかぶせ、自分も部屋に戻っていた。 「殿下、朝でございます。」 涼しげな鈴の音とともに侍女が朝を告げる。絹のカーテンが左右に割れ、窓が開け放 たれると同時にさわやかな朝の風が寝室を駆け抜けていった。 「おはよう。今日もいい朝ですね。」 ベッドから身を起こして、ルーンは窓の外の景色を眺めながら、侍女に声をかけた。 「えぇ。小鳥たちも気持ちよい朝を祝福しているようです。」 いわれて耳を澄ますと、様々な鳥たちの混声合唱が聞こえてくる。大小、高低入り交 じった歌声が見事に調和のとれたハーモニーを形成していた。 「本当。今日も素晴らしい日になりそうですね。」 会話の間にも侍女は、全く手を休めてはいない。すでに、ルーンの髪をすき終わり、 洗顔用の水を用意している。 「本日のお召し物はいかがなさいましょうか。」 ルーンが洗顔を終えるのを見計らって、一着ずつ衣装を手にした数人の侍女がルーン の前に並ぶ。 「今日は、メイの持っている服にします。」 ルーンがそう告げると同時にメイと呼ばれた侍女を先頭に侍女たちがルーンを取り囲 み、一瞬にして、着替えを終わらせた。毎朝の事ながら素晴らしい手並みである。 「それでは殿下、お食事の用意が調っておりますので、食堂の方へ。」 こうして、今日もルーンの多忙な一日の幕は開かれたのだった。 「おはようございます、姉上。」 侍女に誘われて食堂に入ったルーンに、先に席に着いていたファトラが声をかけてき た。 「おはよう、ファトラ。今日は早いのですね。」 ファトラが自分より先に来ていたことに驚きつつも、ルーンは挨拶を返した。 そう、ファトラがルーンより先に席に着いていることなど、ここ数年なかったことだ。 大抵は数分遅れ、酷いときになると朝を告げに来た来た侍女をそのままベッドに引き込 んでしまって姿を現さないことさえある。そのあと、公務中におなかが減って「姉上ー おなかが減って死にそうですぅー。」といって泣きついてくるのは自業自得なので「お 昼まで我慢しなさい。」と返すのが、そういう時の常套句となっている。 「こんな気持ちのいい朝に、いつまでもベッドの中にいるのはもったいないですからね。」 「まあ。いつもお寝坊さんなのに違いなんてわかるのですか?」 驚かされた仕返しとばかりに、ルーンは少し意地悪く言ってみた。客観的に見れば逆 恨みといえなくもないのだが、もちろんルーンには悪意などない。 「痛いところをつきますね、姉上。なぜか今日は早く目が覚めたのです。それはもう、 すっきりと。正確には、目覚めのいい朝と言うことです。」 「夜遊びせずにちゃんと寝れば毎日気持ちいい朝を迎えられますよ。」 「はは、考えておきます。」 多少たじろぎつつ、ファトラが返答してくる。 そんな会話を交わしているうちに食卓に、パンと野菜のサラダ、コンソメスープと いった軽めの朝食が集合を終えた。 「それでは頂きましょう。」 「ええ、頂きます。」 ルーンの言葉を受けて、二人が食事を始めてしばらくたった頃に、いつも通りロンズ が入室してくる。 「おはようございます、殿下、ファトラ様。今日の公務のご予定読み上げますので、お 食事をなさいながらご確認下さい。」 ロンズが、いつも通りの口上を述べて、いつも通りの分刻みの予定を淡々と読み上げ ていく。ルーンはその一つ一つを記憶しつつ、頭の中で論点になりそうなことを整理し ていった。これもいつも通りのことだ。 「…以上です。なにかご質問はございますでしょうか?」 「特にありません。ファトラ、あなたはどうですか?」 「妾もありません。」 「え?ファトラ、本当にないのですか?」 いつもは不平不満や難癖を付けまくる妹に予想外の答えを返されて、ルーンは思わず 聞き返してしまった。 「ファトラ様、体調が優れないのでしたら、医師をお呼びしますが。」 ロンズがあわてた様子で付け加えてくる。 「姉上もロンズも妾も何だと思っておるのです。」 ファトラがジト目でつぶやく。ルーンはそれを見て、自分の中に生じた違和感が育っ ていくのを感じていた。 「ファトラ、やはりあなた今日は少し変ですよ。旅の疲れが残っているのではないです か?」 「変ですか?別段体調は悪くないのですが…姉上がそう仰るなら一応、診てもらうだけ 診てもらうことにします。」 ファトラが素直に応じる。やはり変だ―ルーンははっきりと確信した。 「では、ロンズ。早速お医者様をお呼びしなさい。」 「は。かしこまりました。」 そう言うや否や、ロンズは一礼して退室していった。 「変よ。絶対変!」 菜々美はベッドの上で心中の言葉を吐き出した。すでにタンクトップにスパッツとい ういつも通りの格好に着替えてはいたが、夕べからのもやもやした気分が晴れず、昨日 の昼の一件もあって東雲食堂に顔を出す気がしない。 「ファトラさんが誠ちゃんを襲ってたって言うなら、話は分かるのよ。なのに昨日のあ れは何?それに誠ちゃんのあの態度!イフリータ一筋じゃなかったの?ゆっくりとあわ てず急がず慎重にやってた私はなんなのよ!」 とベッドの上で独白を叫びつつ、暴れている菜々美の耳にドアをノックする音が届い た。もう少しで聞き逃すところだった。いや、もしかするとすでに何度か聞き逃してい たのかもしれないが今、気づいたのだから問題はないだろう。 「誰?!」 ムシャクシャしていた菜々美は、乱暴に誰何の声を上げた。ややあって返事が返って くる。 「おはよう、菜々美。ファトラじゃ。少し話をしたいのじゃが、入れてくれぬだろうか?」 「ファトラさん?何の用?私、忙しいんだけど。」 相手がファトラと知って菜々美は刺々しい答えを返した。 「…昨日のことを怒っておるのか?なら謝る。話というのはそれなのじゃ。入れてくれ ぬのならここでも良い。聞いて欲しい。」 ファトラのただならぬ様子を感じ、菜々美はドアを開けた。目の前に立っているファ トラは昨晩見たときと同様、どこか覇気がない。 「ファトラさん…よね。変な事しないって約束するなら、ちょっとだけなら入ってもい いわよ。」 「すまぬ。」 ファトラがうつむき加減で部屋に入ってくる。こんな様子のファトラは見たことがな いし、芝居をしているようにも見えない。菜々美の心中で昨晩感じた違和感が蘇ってき たが、とりあえず、それはひとまず置いておいて床に敷かれた敷物にファトラを座らせ、 自分も対面に座る。 「で、何?」 菜々美に促されて、ファトラはゆっくりと口を開いた。 「昨夜のことじゃが、あれは全て妾の落ち度じゃ。誠を責めんでやって欲しい。」 「はい?」 予想外の台詞に菜々美は絶句した。 「昨夜は、ちょっと誠に用があって部屋に行ったのだが、誠が居らなかったので、とり あえず帰ってくるまで、寝ていようと思ってベッドの潜り込んだのじゃが、それが悪かっ た。どうもベッドの中にはいると服を脱ぐ癖がついておるようでな。昨日も無意識のう ちに脱いでいたらしい。」 「はあ。」 未だに状況に対応しきれていない菜々美は、曖昧な相づちを打った。 「で、そうとは知らない誠が、布団をはいでしまったわけじゃ。それで誠があまりにも 慌てるものだから妾もついついからかいすぎてしもうてな。自業自得というやつじゃ。」 ファトラが力無い笑いを浮かべるのを見て、菜々美は、ファトラが心底反省している ことと誠に襲われかけて少なからずショックを受けていることを改めて感じ取った。 「ファトラさん。あなただけが悪いんじゃないわ。でも服を脱ぐ癖は治しなさいよ。」 「ありがとう、菜々美。」 ファトラが素直に礼を述べてくる。それだけで菜々美には、驚くべき事だった。どう いう心境の変化があったのか。ただ、襲われかけて反省した結果だけとも思えないが。 「ね、誠ちゃんのこと嫌いになった?」 菜々美は何となくファトラに聞いてみた。 「…昨夜のことは、妾の落ち度じゃ。誠の評価には影響せぬ。」 「じゃあ、好きなの?」 菜々美の言葉にファトラの顔が見る見るうちに紅潮していく。 「ば、馬鹿な。そなたも知っておろう。妾は美少女しか愛さぬ。いくら妾と同じ顔をし ているといってもあ奴は男じゃ。そんな感情はない!」 「なら、なんで赤くなるのよ?」 いつもと違って分かり易すぎる反応を返してくるファトラが面白くて、菜々美は更に 追い打ちをかけた。 「これは…じゃな……確かに誠は他の男とは一線を画しておるが…」 ファトラが両手を顔に当てて半ば、顔を隠すような感じで答えてくる。シェーラでも こんな反応は返してこないだろう。原因は分からないが楽しすぎる。 「どの辺が?」 「…あ奴は力を誇示したりせぬし…女を軽視することもない。それに…」 「それに?」 「ええぃっ!これ以上言えるものかっ!!とにかく、昨夜のあれは事故じゃ。よいな!」 そういうや否や、ファトラは立ち上がり、逃げるように走り去っていった。 「ありゃ?いじめすぎちゃったか…でも、何か今日はやたらに素直だったな、ファトラ さん。」 「………ちょっと待った。」 ファトラの様子を思い返していた菜々美は突然、とある事実に思い当たった。 「ファトラさんが今日だけじゃなく、これからもずっとあの調子なんだとしたら、奥手 のシェーラなんかより、よっぽど強力な誠ちゃん争奪戦のライバルじゃないのーっ!!」 面白がっている場合じゃないことに気づいて、菜々美は立ち上がった。 「藪蛇だったわ。ファトラさんに誠ちゃんを意識させちゃうなんて。自分でライバル増 やしたようなもんじゃない。」 そんなわけで、じっとしていられなくなった菜々美も部屋から姿を消した。 菜々美の目の前に木の扉がある。目の高さの所に金属製のプレートが打ち付けられて おり、この部屋の主の名前が刻み込まれている。刻まれている文字は『水原 誠』。そ の下にもエルハザード文字で同じ名前が刻まれている。 いつもなら何の気兼ねもせずに開けることのできるその扉が、今日に限っては気まず さの漆喰で塗り固められている。 しばしの間、その場に立ちつくして逡巡し―意を決して、勇気という鑿で―実のとこ ろ、焦燥という槌でそれをうち砕く。 「誠ちゃん、起きてる?」 ノックして中に問いかけてしばし待つ。だが、返事は返ってこない。 菜々美はもう一度、少し強く、少し大きく、さらに、もっと強く、もっと大きくそれ を繰り返してみたが、静寂がその全てを飲み込んでいった。 「いない…のかな?」 自分のその言葉で心が軽くなるのを感じて、菜々美は思わず苦笑した。 「いなかったら、馬鹿みたいよね。」 しかし、これで部屋の中を覗くきっかけというか、言い訳ができたのだから全く無意 味ではなかったと言うところだろう。 「誠ちゃん、入るよぉ。」 人はこういう時、どうして声を潜めてしまうのだろう?―そんな疑問を感じつつ、菜 々美は誠の部屋のドアを開けた。 ざっと見渡した部屋の中は、昨晩と全く同じ姿で凍り付いていた。射し込んでくる朝 日も部屋を明るくする事が精一杯で、それを溶かすまでには至っていない。 菜々美はベッドのそばに落ちている毛布に視線を止めた。その下には誠がいるはずだ。 「まさか、死んでたりしないよね?」 菜々美は、おそるおそる毛布をめくってみた。だが、その下にあったものは―『はず れ』と書かれた紙の貼られたガラクタ(研究中の先エルハザードの遺物なのだろうが、 今、そんなことはどうでもいいことだ)の山だった。 「な、何よこれ?」 と、うろたえる菜々美に、後ろから忍び寄ってきた人影が突然抱きついてきた。 「き―」 悲鳴を上げかけた口をその人物に塞がれて、菜々美は、次善策として、手足をばたつ かせた。しかし。 「菜々美ちゃん、昨日は苦しかったでぇ。」 耳元でそう囁かれて、菜々美は動きを止めた。それに応じて、口を塞いでいた手が離 される。ただし、抱きすくめられているという状態はそのままだ。 「誠ちゃん?」 確認の声を上げつつ、首だけ振り返ると視界の端に誠の顔が映った。 「そうや。おはよう、菜々美ちゃん。」 誠が口元に笑みを浮かべて答えてくる。ただし、目が笑っていないせいで、いつもの 爽やかさがかけらすらない。 「おはよう。誠ちゃん。それで、できれば離して欲しいんだけど?」 「ダメや。」 気後れして愛想笑いを浮かべつつ発した言葉を、誠が即座に拒否してくる。 「…もしかして、昨日のこと怒ってる?」 愛想笑いを浮かべたままの問いかけに対し、誠は一呼吸置いて返答してきた。 「当たり前やないか。いきなり首締められて、朝まで放っとかれて、その上謝罪もなし に『怒ってる?』なんて言われた日にゃ、他にどないせいっつーんや?」 「あ。ご、御免、誠ちゃん。許して、何でもするから…」 「何でも?」 誠が訝しげに聞き返してくる。 「う、うん。今日の朝御飯は一品多くサービスしちゃうし、お茶は飲み放題!」 菜々美は抱きすくめられたまま両手をあげて答えた。 「それも魅力的やけどそれよりも…」 そういって、誠は菜々美の耳を優しく噛んできた。 「え?ち、ちょっと誠ちゃん?」 突然の出来事に菜々美が狼狽する。しかし、そんなことはお構いなしに、タンクトッ プの中に誠の手が進入してくる。 「や。そんな…」 「何がイヤなんや?」 唇を耳から首筋に移しつつ、誠が問いかけてくる。 「どう…しちゃったの、誠…ちゃん?」 どう考えてもいつもの誠の言動ではない。体の奥からわき上がってくるものに必死で 抗いつつ、菜々美は問いかけた。 「『どうした』て昨日、菜々美ちゃんに言われたことを実践してるだけや。『いい人』 止めて、自分に正直に、自由に生きることにしたんや。」 そういいつつも誠の指や舌は休むことなく動き続け、ついに菜々美はベッドに押し倒 されてしまった。 「誠ちゃん…」 「なんや?」 「ホントに誠ちゃんよね?ファトラさんじゃないよね?」 不安げな菜々美の言葉に誠が優しげな微笑みを浮かべて答えてくる。 「その質問は昨日も聞いたで。僕は正真正銘、水原誠や。菜々美ちゃんさえよければ今 からゆっくり証明して見せたる。」 その言葉の意味することを頭の中に思い浮かべて躊躇しながら、菜々美はゆっくりと 口を開いた。 「うん…いいよ。誠ちゃん。」 菜々美はそうつぶやくと、ゆっくりと目を閉じた。
公務の合間、控え室でルーンは一通の報告書に目を通していた。 様々な項目のチェッ ク欄に数字や、短い文章が書き込まれている、それの最後の一文を見て、彼女は眉をし かめ、もう一度、冒頭から眺め返して、今度は最後の一文を読み上げた。 「『全項目異常なし』。これがファトラの精密検査の結果なのですか?」 「は。筋肉に多少の疲れが見られるものの、視聴覚、嗅覚、味覚、触覚、呼吸器系、消 化器系、循環器系、その他、内臓、皮膚、泌尿器系に至るまで、異常は見あたらないと 言うことでした。」 その診断書を携えてきたロンズが、それに補足を加える。 「少なくとも、肉体的には何の問題もないというわけですね?と、なると神経科ですか?」 「ファトラ様は「神経科だけはイヤじゃ!」と申しておりましたが。」 「構いません。全てはあの子のためです。拘束してでも診ていただきなさい。」 渋がるロンズに向かってルーンはぴしゃりと言い放った。 今朝のファトラの様子は絶対に何かがおかしい。態度はもとより、雰囲気そのものが 昨日と激変してしまっている。強いてあげれば、誠のそれに似てなくもないが、無論、 誠の変装であったわけではない。 あれは確かに本物のファトラだった―それだけは断言できる。違和感を感じているの になんで断言できるのか?そう問われれば、こう答えるだろう。『たった一人の大事な 妹だからだ。』と。根拠などと言うものは必要ないのだ。 だからこそ違和感を感じたことに疑問を抱く。何かの病気の前兆かもしれない、そう 思うと、いても立ってもいられなかった。妹馬鹿といわれるかもしれないが、ファトラ が幻影族に囚われていた日々のことを思うと姉として出来うる限りのことはしたいと思 う。それが、ルーンの正直な気持ちだった。 ルーンの真剣な表情に、彼女のそんな思いの一端をかいま見たロンズが、その言葉を 実行すべく踵を返しかけた刹那、控え室の扉が静かに開いた。 「姉上。」 扉から現れたのは、検査用のスモックを着た。当のファトラだった。そして、ルーン の前までやってくると、その瞳をまっすぐにのぞき込んで、口を開く。 「精神科だけはお許し下さい。」 「何故ですか、ファトラ?」 ファトラの真剣な面もちに対して、ルーンは、辛うじてその一言を返した。 「たとえ、相手が医師であろうと、他人に妾の心の内面が探られ、批評を下されるなど、 耐えられませぬ。」 ファトラの瞳が大きく揺れる。だが、その視線は逸れることなく、ルーンの瞳に注が れていた。 だからこそ、その心の内が痛いほどに伝わってくる。 「わかりました。精神科はやめましょう。」 「姉上…。」 ルーンのその言葉に心痛な面もちだったファトラの表情が明るくなる。 「ロンズ。私は少し、ファトラと話があります。次の予定を少し繰り下げてはもらえま せんか?」 ルーンは、ロンズに視線を移して問いかけた。もちろん有無を言わせるつもりはない。 そのことはロンズもよくわかっている。反論してよけいな時間を使うよりも、なるべ く早く公務が再開されることを念頭に置いて、渋々と行った様子で答えてくる。 「わかり申した。ただしなるべく手短にお願いしますぞ。後のご予定が押します故。」 「ありがとうロンズ。苦労をかけます。」 「もったいのうお言葉。では、失礼いたします。」 ロンズは深々と頭を下げて一礼した後、退室すると、謁見の間に早足で向かった。予 定の遅延の詫びと、時間稼ぎをするために。 それを見送り、足音が遠ざかっていくのを確認してから、ルーンは、妹に視線を戻し 優しく問いかけた。 「今、ここには私たちしかいません。ですから今の私はロシュタリア第一王女ではなく、 ただのあなたの姉です。姉として、たった一人の大事な妹である、あなたに聞きます。 昨日、公務が終わってから、今朝までの間に何かあったのですか?」 その問いに対して、ファトラはしばしの間、思案にくれていたが、何か、思い当たる ことがあったらしく、慎重に、言葉を選ぶように、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
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第4章に続く
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