エルハザード同盟、首長国ロシュタリア。その首都である、水と緑の都フリスタリカ では、今、まさに、一日が始まろうとしていた。一般居住区の家々の煙突は、朝が来た ことを祝うかのように、朝食の香りをのせた、煙を立ち上らせている。 しかし、それらを一望できる、小高い丘の上に鎮座している王宮は、未だ、城門とい う名の瞼を堅く閉ざし、目覚めの時を待ち続けていた。目覚めの時―不寝番と朝番の門 番の交代時間までは後、数分といったところだ。 城門の左右の門柱には、それぞれ一 人づつ、門番が張り付いていた。立ってはいない。二人そろって門柱に寄りかかり、手 にしたシャークガンを杖替わりにうたた寝をしているようだった。だから、目の前に人 影が現れたことには、当然のごとく気づかなかった。 門番Aがそのことに気づいたのは、胸ぐらを捕まれ、投げ飛ばされた後だった。門番 Bがそれに気づいたのは、投げ飛ばされてきた門番Aが自分に激突した時だった。しか し、いずれにしても遅すぎた。次の瞬間には、二人とも、気を失っていたのだから。 「どいつもこいつもぶったるみおってぇぇぇっ!」 両手をわななかせた、その人影―ファトラの絶叫が辺りに響きわたった。 王宮の一室。そのほぼ中央で、ロンズは頭を抱えていた。部屋の奥、3mほど離れた、 正面の上座にファトラが座している。その隣で、アレーレが飲み物を差し出しているの が見える。 「さて、ロンズ。今朝の門番の失態について、何か意見はあるか?」 「は。まったくをもって、言い訳の言葉もありませぬ。あの者たちは、即刻、解雇いた し…」 「一人や二人罰したところで何が変わるものか!全軍、教練書の音読から、再教育せよ!」 覇気のない、ロンズの言葉をファトラが強い口調で遮った。そして、そのまま続ける。 「バグロムの大規模な侵攻が、近頃ないのは確かだが、逆にそのせいで、同盟諸国間に 不穏な空気が漂いはじめておる。平和ボケしている場合ではないぞ。」 「確かに、そのような噂は某も耳にしておりますが、噂の域を出ぬものに対して、断定 口調で話すのは、軽率というものでございますぞ。」 ロンズは、思わずファトラをたしなめた。王女の軽率な発言は、簡単に国際問題に発 展することをロンズは、よく心得ている。 「そなたのいうことも、もっともじゃ。が、」 ファトラは、そこで言葉を切り、視線をロンズから、アレーレに移した。 「アレーレ、例のものをロンズに。」 「はい、ファトラ様!」 アレーレは、後ろに置いてあるリュックを、しばらくかき回していたが、やがて、紐 でまとめられた紙の束を取り出した。それを持って、ロンズにかけより、 「はい、侍従長。」 そういって、笑顔でそれをロンズに手渡すと、ファトラの横に戻っていった。 ロンズは、手に取ったそれを、訝しげに思いながら、しばらく観察してみた。 紙の質はお世辞にもいいとは言えない。手触りはごわごわしているし、表面はでこぼ こだ。なにより、インクがにじんで、文字が潰れてしまっていて、読みとりづらい。 ファトラはパピルスを好んで使うし、アレーレとは、筆跡が違う。つまり、二人の持ち 物ではないということだ。 「これは、何なのでございましょうか?」 ファトラの真意をはかりかねて、ロンズは顔を上げ、ファトラに問いかけた。 「この度の旅の土産じゃ。中を読んでみるがよい。」 不敵な笑みを浮かべて、ファトラが答えてくる。ロンズは促されて、表紙をめくった。 本文もやはり、インクがにじんでいるため、読みづらいことにかわりはないが、何とか 読み進める。 読み進んで行くに連れ、ロンズの表情は徐々に険しくなっていった。十枚に満たない、 それを読み終えたとき、ロンズの表情は戦場に臨む指揮官のものとなっていた。 「ファトラ様、このようなものをどこで手に入れたのです?」 感情を抑えた声音で、ロンズは、ファトラに対して問いを発した。 「土産は、土産物屋で手に入れるものと相場は決まっておる。」 口調とは裏腹に、真剣な面もちで、ファトラは返答した。 「その土産物屋は信用できるのですかな?紛い物をつかまされては、話になりませぬぞ?」 「アレーレ、そなたはどう思う?」 ファトラは、ロンズの質問を、そのまま隣に立っているアレーレに振った。 「あのお姉様のことですか?きれいで、素直な方でした。あぁ、今思い出してもクラク ラ来ちゃいますぅ〜。」 アレーレが、顔の横で手を組み、目をきらめかせながら、発言した。 「と、いうわけじゃ。」 何が『と、いうわけ』なのかさっぱりわからない。ロンズの顔に困惑の表情が浮かぶ。 「訳が分からぬ、と言いたげじゃな?まぁ、その通りじゃ。会ったこともない人物なぞ 信用できるはずもない。」 ファトラの返答に、やっと足がかりを見つけて、ロンズは口を開いた。 「それでも、信用せよと仰られるのでございましょうか?」 「信じるか否か、それを決めるのは、そなた自身じゃ。それに目を通し、自分で判断す ればよい。その上で、不要と判断したのなら、引き裂こうが、焼き捨てようがかまわぬ。」 ロンズは、自分の手に握られた紙束を一瞥し、すぐにファトラに視線を戻して答えた。 「殿下をお守りし、危険を一歩でも遠ざけるのが我らの使命なれば。たとえ、この『計 画』が真のものであったとしても、必ずや阻止してご覧に入れます。」 ファトラは、この『計画書』を盲信しているわけではない、とロンズは確信した。な らば、自分は己の役目を果たすだけだ。たとえ、賊がどのような策を弄そうとも。 その決意を読みとったのか、ファトラが、満足げにうなずいた。 「それと最後に一つ。それは、そなたへの個人的な土産じゃ。あまり見せびらかせては ならぬぞ。特に姉上にはな。」 「心得ておりまする。では、某は兵の訓練があります故、これにて。」 ロンズは、最敬礼をし退室した。 王宮の中庭に造られた泉。とは言っても、木々に囲まれているおかげで、中庭と言う ことをまるで感じさせない。床がタイル張りでなければ、『森の中の泉』といっても通 用するくらいだ。泉の中央には、女神像を模した高さ3m程の噴水が立っている。美術 品としても極上の部類に入る一品である。だが、その足下には、本物の女神がたたずん でいた。ウェーブのかかった金色の髪、薄衣を通していてもわかる均整のとれた、見事 なプロポーション、愁いを帯びた、だが、強い意志を内に秘めた青い瞳、そのどれを とっても彫像など、遙かに凌ぐ美しさを誇っている。その女神像がただの噴水に見える ほどに。女神像にとっては不幸といえるかもしれないが。 「姉上、ここにおられましたか。」 突然、林の中から声をかけられて、女神―ロシュタリア王家第一王女、ルーンは、声 のした方にあくまで、優雅に視線を移した。それとほぼ、時を同じくして、林の中から その声の主、彼女の妹であるファトラが姿を現した。それを確認して、ルーンは優しく 声をかけた。 「まぁ。お帰りなさいファトラ。疲れているでしょう?早くこちらへいらっしゃい。」 「はい。では、お言葉に甘えさせていただきまして、失礼いたします。」 ファトラが軽く一礼して、泉に入ってくる。 ファトラは全裸ではなく、ルーンと同じ様な湯浴み着を纏っていた。ファトラにして は、珍しいことだが、ルーンに対する彼女なりの礼儀なのだろう。 ファトラが、自分の隣に腰を下ろすのを見計らって、ルーンは口を開いた。 「公務をほったらかしにして、何処へ行っていたのです?」 「すみませぬ、姉上。見聞を広めるため、旅に出ておりました。」 「旅と公務とどちらが大切なのか、わからないわけではないでしょう?」 「薄暗い公務室は、わらわに何も与えてはくれませぬ。ですが、輝く日の下での旅は、 多くの物事をわらわに教えてくれました。」 「旅で得たもの、感じたことは、貴方の心の糧になりましたか?」 「海岸に打ち寄せる波がすべてをさらっていってしまう前に、語りましょう。あの物語を。」 二人の間で、流れるように問答が成された。もう、幾度となく繰り返してきた問答。 一種の通過儀礼といっても差し支えない―実際そのようなものだ。次に行うことも決まっ ている。いつも通りにファトラは語り始めた。 城下の様子、近隣の村々の様子、人々の間に流れるうわさ話、旅の道中であった人々の 話、心に残る風景、今回訪れた近隣諸国の様子。ファトラの口から紡ぎだされる話は、 ルーンにとって始めて聞く、王宮の中にいては体験できない珍しい事柄ばかりだ。ルーン が、ファトラの旅を頭ごなしに否定できない一番の理由がそれだった。そして、そんな ファトラがうらやましくも思える。 その話の中で、ルーンが一番興味を引かれた話はというと… 国境の関所を越え、ファトラとアレーレは、とある国の山中にいた。王女が理由も無し に(美少女狩りなどと、関所で言えるものか)他国に侵入したとあっては、その国への威 圧行為もしくは、スパイ行為とも受け取れかねないので、身分は伏せてある。身分を証明 するようなものは全て、国境手前の知り合い(無論、愛人の一人だ)に預け、愛用の偽造 パスポートを使用し、あまつさえ、服を借りて変装までしているという手の込みようだ (これで、身分がばれたら、それこそ言い訳のしようがないという危険性もあるのだが)。 「ぬう、何故、こんな山の中に関所などつくるのじゃ。街まで出るのが大変ではないか。」 2本の三つ編みをそれぞれ大きなリボンで結び、ひらひらのフリルのついた、ピンクの ドレスという思いっきり少女趣味の出で立ちをしたファトラが、不平を漏らす。 「何もない草原のど真ん中にぽつんと立っていたら、みんな、横をすり抜けちゃうから じゃないですか?」 服装は、いつもと同じだが、大きなぐるぐる渦巻きめがねをかけたアレーレがもっとも な意見を述べる。 「このような着慣れぬ動きづらい服で、山道を歩くなど、疲れるだけじゃ。」 「でも、とってもかわいいですよ、ファトラ様。思わず、惚れ直しちゃいました。」 「あれを見ても、そんな呑気なことが言えるか?」 やれやれといった口調で、ファトラが前方を指し示す。それに促されて、前方に視線を 移したアレーレは、100m程先に人影を発見した。更によく見てみると、それは、数人 の男が、17,8歳ほどの少女を囲んでいるのだということがわかる。 「疲れるだけじゃろう?いや、景品がついているだけ、マシというものか。」 口調はそのままだが、ファトラの口元にはわずかに笑みが浮かんでいた。 「急がないと、あのお姉さまが!」 アレーレが、ファトラを急かす。しかし、ファトラは冷静だった。歩くスピードは全く 変えずに、視線も前方を見据えたまま、アレーレにこう囁く。 「この服装では、動きが大きく殺されてしまう。三人を相手に無傷というわけには行かぬ。」 「では、どうなさるおつもりですか。」 あわてて、アレーレが聞いてくる。 「『油断大敵』という言葉の意味を教えてやるのじゃ。」 ファトラは、不敵な笑みを浮かべて、そう答えた。 その間にも、ファトラ達と男達の距離、男達と少女の距離は少しずつ狭まっていった。 ファトラ達と男達の距離が、残り10mまで縮まったとき、ついに男の一人が、少女の 腕をつかんだ。と、同時に残りの二人がこちらに気づいたようだった。その内の一人、手 前にいる男が、もう一人に手を挙げて制し、こちらに近づいてくる。 「お嬢さん、いいところに来たねぇ。」 下卑た笑いを浮かべながら、その男(仮にトムとしておこう)が近づいてくる。 アレーレを後ろに隠して、ファトラは、その場に立ちつくしていた。両拳を口元に当て、 体は、男に対して半身、眉をハの字にして、不安げな表情を作る。 ファトラの仕草を怯えととったトム(仮)が、目を血走らせて、更ににじり寄ってくる。 「そんなに怖がらなくてもいいんだよぅ。やさしくするからさぁ。」 そんなことを言いながら、トム(仮)が手を伸ばしてきた。前のめりになっているせいで、 だらしなく開いた顎が無防備にさらされている。それを見逃すようなファトラではない。 「きゃあああああああぁっ!」 ファトラは悲鳴を上げつつ、それまでの嫌悪感の全てを込めた、フック気味の掌底をそ の顎にたたき込んだ。たまらずにトム(仮)が吹き飛ぶ。そしてそのまま受け身もとれず に地面にたたきつけられて、そのまま動きを止めた。 その様子を見て、もう一人(仮にマイケルとしておこう)が、あわてて駆け寄ってくる。 「あはは、凄いビンタだね。でもこれは洒落にならないなあ。完全にのびちゃってるよ。 酷いことするなあ。」 呆気にとられている、ファトラとアレーレに向かって、マイケル(仮)は、更に続ける。 「こいつが下品なのはこいつの個性というものさ。誰にも攻められはしないよ。それに、 こいつは、君たちと気持ちいいことをしたいという自分の欲求に正直に行動しただけさ。 むしろ、賛美したいくらいだよ。」 言っていることは滅茶苦茶なのだが、こう矢継ぎ早にまくし立てられると、判断力が追 いつけなくて、納得してしまいそうになる。 「僕たちとしてはさぁ、最低限こいつの治療費をもらわないと、後に引けないなぁ。もち ろんそれは最低限ってやつで、他にも慰謝料とかお見舞いとか、御霊前とか御仏前とか、 いろいろあるけど、お金だけじゃなくて、誠意を見せて欲しいなぁ、君たちには。例えば、」 「のどが渇いた。」 唐突に、何の脈絡もなく、ファトラが口を開いた。 「へ、のど、お、あ、あわびゅっ!」 マイケル(仮)は、言葉を乱したかと思うと、次の瞬間、意味不明の叫びとともに、口 から大量の鮮血を吹き出しながら、頽れた。どうやら、突然のファトラの発言に対処しき れず、思いっきり舌をかんだらしい。 「何だったんじゃ、こやつは?」 あきれつつ、とりあえずファトラは服に血が付いてないか確認した。借り物にシミなど つけられてはたまらない。 しばらくチェックをして、どうやら大丈夫だと判断して、ファトラは、最後の一人を見 据えた。相手も、こちらをじっとにらんでいる。逃げる気は毛頭ないようだ。 「そんなに服が大事なら、これ以上暴れないことだ。」 低い声で、男が告げてくる。男の足下には、先程の少女が、荒縄で縛り上げられて、横 たわっていた。暴れても、体力を消耗するだけだと悟ったのか、動くと荒縄が食い込んで 痛いからなのか、ともかく、少女はおとなしく、ことの成り行きを見守っていた。 「少女を荒縄で縛るなど、言語道断!たとえ天が見逃そうとも、わらわが許さん!!」 ファトラが一歩前に出る。男との距離は、7m程。一気につめられるという距離ではない。 こんな服では、なおさらだ。それに、いざとなれば、向こうは人質を取れるのだ。 「『口先の魔術師』の称号を受けた、奴の『マシンガントーク』を打ち破るとは大したも のだが、この『荒縄のジョー』には通用しない。おとなしく、有り金全部置いてここから 消えな!そいつらと違ってガキを抱く趣味はねえんでな。」 そんな称号、誰から授かったんだか。ま、どうせ自称しているだけなんだろうが。どち らにしろ、センスのかけらもない。第一『口先の魔術師』とやらは自滅しただけだ。何が、 どう通じないのやら。それとも、自滅はしないという意思表明なのだろうか? そんなことが、ファトラの頭の中をよぎる。何にしても、答えは決まっている。 「断る。」 ファトラがそう断言すると同時に、ジョーの腕が動いた。ファトラは、反射的にその場 から飛び退く。次の瞬間、ファトラが立っていた空間を何かが貫いていく。 それはどうやら荒縄のようだった。もちろん縄だけでまっすぐにとんでくるわけはない から、先端に何か重りをつけてあるんだろう。 (荒縄の鞭か?荒縄を使う意味がどこにあるのか、ようわからんが、鞭ならば、引き戻す この瞬間が好機!) そう判断したファトラは、一気に間合いをつめるべく地面を蹴ろうとした。が、再び ジョーの手元から荒縄が放たれたため、それはできなかった。それどころか、すでに前傾 姿勢になっていたため、体をひねって直撃をさける程度が精一杯だ。 荒縄がファトラの顔をかすめた。直撃こそしなかったもののドレスのスカートが広範囲 にわたって引き裂かれる。スカートが一瞬にしてぼろ布に変わる。何とか着地したファト ラはスカートを膝上5p程を残して引き裂いた。 「俺はガキに興味もなけりゃ、手加減する趣味もねえんでな。だが、ちったぁ色っぽくな ったじゃねえか。」 ジョーが、新しい荒縄を手にそんなことを言ってくる。 「優位に立ったつもりか?貴様の手の内などすでに読めたわ。」 ファトラは立ち上がりながら、言い返した。負け惜しみというわけではない。先程は、 この荒縄が「鞭」で、「一本しかない」と誤認したからこそ不意をつかれた。しかし、今 はこれが「投擲武器」で、「複数本ある」ということがわかっている。投擲武器ならば、 回収しない限り、たとえ何本あろうとも、そのうち尽きる。それを待てば、接近戦に持ち 込むことができる。接近戦ならば勝てる。ファトラは、そう考えていた。 「ふん。なら、確かめてみろ。」 ジョーが再び、荒縄を投げてくる。だが、回避に専念したファトラには、もうかすりも しない。それでもジョーは荒縄を投げつけてきた。4本、5本、その全てをファトラは、 ほとんど体勢を崩すことなく、右へ、左へと避け続けた。 「ふん。避けるだけか?やはり、所詮ガキだな。」 手を止めて、ジョーがそんなことを言ってくる。口元に皮肉気な笑みを張りつけて。 「そのガキに当てることさえできぬではないか。」 「では、これでどうかな?」 そういって、ジョーは両手に荒縄を持った。 「無駄なことを…」 ファトラがそうつぶやくと同時にジョーは、2本同時に荒縄を投げつけてきた。だが、 その荒縄は、完全に狙いを外していた。荒縄の先端はファトラの左右をそのまま通過して いく。さすがに、2本いっぺんではコントロールは狂う。さらに投げた後の隙も大きい。 自分で自分の首を絞めるようなものだ―ファトラはそう思っていた。 この隙を見逃すまいと、ファトラは一気に間合いをつめるべく大地を蹴った。その瞬間。 「ファトラ様、危ない!」 縄が届かない距離まで後退していたアレーレが叫んだ。 「何?」 少し遅れて、ファトラはその意味を理解した。荒縄がファトラに迫ってくる。ただし、 前方ではなく下から。大地を蹴ったファトラは今、空中にいる。体は慣性に従って、前方 に進むだけだ。体をひねってみたが起きあがってくる荒縄から逃れることはできなかった。 成す術のないファトラを。荒縄が打ち据える。痛みで動けなくなる、というほどではない。 しかし、ファトラの動きを止めるのには十分だった。はじき飛ばされつつも、何とか踏み とどまったファトラに今度は、荒縄が直接打ち込まれる。 今度は、痛いでは済まなかった。今まで確認できなかったが、荒縄の先には、一握りほ どの鉄球が結びつけられていたのだから。それに加え、勢い余った荒縄が、鞭のように ファトラの体を打ち据え、追い打ちをかける。いくら何でも立っていることなど、できる わけはない。そのまま、ファトラは仰向けに倒れた。 霞んだ視界に駆け寄ってくるアレーレが映った。何かを叫んでいるようだが、よく聞き 取れない。瞼が重い。このまま閉じてしまったら、どんなに楽だろう。だが、頭の奥の方 で誰かがそれを拒否している。 「キィィィン」 鋼と鋼がうち合わされる音がすぐ目の前で響いた。それをきっかけに頭の中の「誰か」 と、「自分」が一つになる。ファトラは意識を取り戻した。明瞭になった視界の中で、 アレーレが倒れていた。側には、護身用の短刀が転がっている。 「邪魔すんじゃねぇ!ガキが!!」 自分の真上でジョーの怒声が響く。ファトラは即座に理解した。ジョーのとどめの一撃 を、アレーレが間一髪で防いでくれたのだ。ジョーの右手には、大型のナイフが握られて いた。 「あばよ。」 ファトラが意識を取り戻したのに気づいたのか、ジョーはそんなことをつぶやいて、再 びナイフを振り下ろした。 ファトラは、右手に触れたもの―手触りからして、間違いなく荒縄だ―を、とっさにナ イフの軌道上に滑り込ませた。無論、男の力で振り下ろされたナイフをその程度で止める ことなどできるわけはない。だが、その目標をそらす程度のことはかろうじて、できたよ うだった。 ナイフは、ファトラの左耳をかすめ、大地に突き立った。 背中が吹き出した冷や汗でびしょぬれになっているのを感じつつ、ファトラは、隙ので きた、ジョーの脇腹に左拳をたたき込もうとしたが、さすがにそれは避けられた。 飛び退いたジョーが体勢を整える前に、ファトラは横に転がってから、立ち上がる。 「なかなか、しぶといじゃねえか。」 ナイフを構えつつ、ジョーが言ってくる。 「よもや、最初に投げた縄のもう一端を投げることで、地面に這っておる縄を武器にする とは、考えもしなかったぞ。」 普通、そのような方法で縄を当てたところで、大したダメージにはなり得ない。しかし、 この男はそれを、あえて絡め手として使い、有効打を打ち込む足がかりとした。その点は 評価できる。ファトラのこの言葉には、相手の戦術に対する評価と、相手を甘く見た己へ の訓戒が混じっていた。 「誉めたところで何もでねえぜ。」 ジョーがナイフを引き、足を一歩踏み出す。 「今まで、お主を甘く見ていた。」 ジョーの左足が地を蹴る。 「その非礼の詫びに見せてやろう。」 ファトラが始めて構えをとる。 「ハンダラバッタ流円舞拳・奥義」 ジョーの右腕から、ナイフが繰り出される。 「女帝円舞!」 ファトラの左腕が、弧を描き、ジョーの繰り出したナイフを、その右腕ごと受け流す。 「くっ…」 ジョーが、うめきつつ放った、左のボディブローを右手で、逸らし、続く右のローキック をすかす。そのまま右腕を巻き込み、残った左足を払う。 「がはぁっ!」 ジョーの体が弧を描いて半回転し、地面に叩きつけられる。 「はっ!」 右腕を極めたまま、とどめの右拳を、みぞおちにたたき込む。 ジョーの体から、力が完全に抜けたのを確認してから、ファトラは、倒れたままのアレーレ に駆け寄った。 「大丈夫か、アレーレ!」 ファトラは片膝をつき、ゆっくりとアレーレを抱き起こして、呼びかけた。 しばらくして、アレーレが、薄く目を開く。 「あ…ファトラ様…ご無事でしたか。良かった…」 「うむ。そなたのおかげじゃ。礼を言うぞ。」 「そんな…私は、自分の身を守っただけです…ファトラ様が死んだら、私も生きていられ ませんから…」 「わらわの命を救ったことにかわりはない。」 ファトラは、アレーレを抱きしめた。 「私は大丈夫です。それより、あのお姉さまを。」 「そうであったな。」 アレーレの顔の血色が良くなってきたので、ファトラは、アレーレに肩を貸して移動し、 縄で縛られたままの少女の側に腰を下ろした。そして、少女にかまされている猿ぐつわに なっている布を外す。 「そなた、名は何という?」 「リリィといいます。」 か細い声で、少女が答えてくる。と、いっても疲弊している様子はない。元々、こうい う声なのだろう。特に気にせず、ファトラは次の質問をした。 「こういう輩は、この辺ではよく出没するのか?」 「時々、そういう話は耳にしてましたが、出会ったのは、初めてです。」 それは、そうだろう。こんな奴らに二度も会いたくはない。 「そなたの家は、商人、もしくはこの辺りの有力者なのか?」 「いえ、両親は、私が幼い頃になくなりました。」 「すまぬ。嫌なことを聞いてしまったな。」 ファトラがあわてて謝罪する。その瞳が、少し翳ったことに気づいたのかどうかはわか らないが、 「いえ、大丈夫です。気にしてませんから。」 リリィが、笑顔を作って答えてくる。 「ところで、できればこの縄、ほどいて頂きたいのですけれど。」 眉を少し下げて、リリィは、そう付け足した。 「と、言うわけで、ケダモノどもの手から、美少女を無事救い出したのです。」 得意気に話すファトラとは対照的にルーンの表情は曇っていた。 「ファトラ。貴女の行ったことは立派なことです。ですが、そのような無茶をして。貴女の 身にもしものことがあったら…」 ルーンが、ファトラの顔をのぞき込み、潤んだ瞳で語りかけてくる。 「姉上…私は、姉上の微笑むお顔が幼少の頃から大好きなのです。ですから、そのようなお 顔はおやめ下さい。もう無茶など致しませんから。」 「本当ですか。ファトラ。」 ルーンの顔が、ほころぶのをみて、ファトラも微笑み返す。 (ですが、姉上が危険にさらされた時には、たとえ無茶と言われようともわらわは―) ファトラは心中でそう、付け足した。 「ルーン殿下、次の公務に差し支えますので、そろそろお上がりになられて下さい。」 林の奥、入り口の方から、聞こえてきた侍女の声を聞き、ルーンがあわてて立ち上がる。 「あらまあ、もうそのような時間なのですね。ファトラ、貴女は疲れているでしょうから、 今日の公務は免除します。後で、誠殿にお礼を申し上げるのですよ。」 「はい。姉上。お心遣い感謝いたします。」 ファトラも立ち上がり、ルーンに頭を下げた。 「誠に礼か…わらわもあ奴に用があるし、ちょうど良い。」 ファトラの顔に小悪魔的な笑みが浮かんだことに幸か不幸か、ルーンは気づかなかった。
第2章に続く
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