我が城で踊れ潜入者


プロローグ



 早朝―大地がまだ、朝靄をまとい、まどろんでいる時間。
 気のはやい鳥たちが朝の挨拶を始めつつある森の中を、2つの影が歩いている。先頭を
歩く影は、ネコ科の肉食獣特有のしなやかで、優雅な、それでいて隙のない足取りで、軽
やかに進んでいる。その後ろを歩く影は、それに比べ、やや、優雅さにかけ、足取りも重
い。影たちの距離がほとんど離れずに済んでいるのは先頭を歩いている方が、たびたび立
ち止まり、辺りを見回しているからだった。
「ファトラ様ぁ。フリスタリカはまだですか〜?」
 後ろを歩いている影が、前を歩く影に声をかける。声に疲労が混じっていた。
「おかしいのう。わらわの勘では、そろそろ本街道に行き当たってもいいようなものなの
だが?」
 ファトラと呼ばれた黒髪の少女が、それに答える。答えになっていないが。
 二人は今、フリスタリカを覆う森の獣道を歩いていた。恒例の美少女狩りの帰り道、森
の深い部分を迂回している本街道をショートカットしようと、たまたま見つけた獣道を突
き進んでいたのだ。もちろん、獣道がまっすぐ続いているわけはなく、いくつか有った脇
道を慎重に選択して、なるべく同一方向に進んでいたつもりだったのだが、視界の悪い森
の中、朝靄で遠近感を狂わされたのも災いしたらしい。
「もしかして、迷ったんですか?」
 恐る恐るといった感じで、質問が追加された。
「何を馬鹿なっ!この森は幼少の頃より、わらわの庭じゃ。迷うわけがなかろう!アレーレ、
わらわを愚弄するつもりか!!」
 他国ならいざ知らず、ロシュタリア国内、それも毎日のように侍従を振りきっては、走り
回っていたこの森で迷っているなどという事実を認めることは、ファトラのプライドが許さ
なかった。もっとも、そのころは、いつもウーラが側におり、どんなに森の奥に入っても、
ウーラがいれば、帰ってこれたのだが。
 アレーレと呼ばれた小柄な少女は、おろおろしながら後ずさる。ファトラは、それを追い
かけるように、大きなストロ−クで詰め寄り、アレーレを捕まえようと手をのばした。
「うわっ」
 スッテーーーン
 森に悲鳴とともに、転倒音が響く。だが、その主は、アレーレではなく、ファトラだった。
「だ、大丈夫ですか、ファトラ様!」
 転倒したファトラをアレーレがあわてて抱き起こす。ファトラの足下をみると、卵形の物
体が地面から顔を出していた。大きさは拳ほどだ。
「ぬうぅっ、わらわを転ばせるとは、その所業、許し難いっ!」
 ファトラは、抱き起こされるや否や、すくと立ち上がり、そう叫びつつ、足下の物体に怒
りの鉄拳をたたき込んだ。轟音とともに物体を中心に半径50pほどの杯形に地面が最大
10pばかり陥没する。凄まじいまでの破壊力だ。にも関わらず、当の物体自体にはひびど
ころか、傷一つついていない。卵形というのは、構造上、衝撃に強いのは事実だが、相当な
硬度の物質で構成されているらしい。
「生意気なっ、我が拳に屈せぬとは!」
再度、拳を振り上げるファトラを見て、アレーレは、あわてて横から抱きついた。
「!…何をするアレーレ?」
「そんな物を叩き続けたら、ファトラ様のゴールドフィンガーが痛んでしまいます!」
 アレーレにとって、ファトラの怒りの対象が自分以外へ向いたのは好都合だった。しかし、
それ以上に、愛しのファトラが傷つくのを見たくないという思いが勝ったのだ。
「わらわの拳は、この程度でつぶれる程ヤワでは…」
 ファトラはそこで言葉を詰まらせた。自分を見上げているアレーレと目があったのだ。
 アレーレの潤んだ瞳が、自分をまっすぐに見つめている。情熱の炎をそのまま封じ込めた
ような瞳の中で、無数の光が踊っている様を見、ファトラは、その瞳から、目を離せなく
なっていた。頭の中から、怒りが急速に消えていき、それに代わって、別の感情が産声を上
げた。
「たとえ、エルハザードに存在する、全ての宝石をかき集めたとしても、これほどの美しさ
と輝きを併せ持つものは、あるまい…」
 思わず、つぶやきが漏れる。
「ファトラ様…」
 アレーレの表情がゆるみ、頬が上気して、桜色に染まっていく。
 ファトラは、心の底から、愛おしさがこみ上げてくるのを感じながら、ただ、アレーレの
瞳を見つめていた。アレーレも、それに答えるように、ファトラの瞳を見つめ続ける。二人
は、しばしの間、見つめ合った。
 その間にも、ファトラの胸の中で愛おしさはあふれ続け―ついに臨界点を突破した。体を
アレーレの方に完全に向き直らせ、ついで、ゆっくりと右手で、彼女の頬を包み込む。一呼
吸おいて、ファトラは、そっと優しくつぶやいた。
「やはり、そなたは、わらわの最高の恋人じゃ。」
「はい。」
 短い返事とともに、軽くうなずき、アレーレは、目を閉じた。それと同時に、ファトラの
唇はアレーレの唇に引き寄せられていき、やがて、重なり合った。


 果たして、どれはどの時間が経ったのだろうか?数秒のようにも、数時間のようのも感じ
られる。いや、愛のひとときに、時間の概念など、無用のものだ。確かなのは、それが、一
瞬でも、刹那でもないということだけだ。 そんなことをただ、漠然と思いはじめて、ファ
トラは、名残惜しむようにアレーレから顔を離した。アレーレが恍惚の表情を浮かべたまま、
しなだれかかってくる。どうやら、足腰が立たなくなっているらしい。
「…ちと、やりすぎたか。」
 その様子を見て、ファトラは、軽く眉根を寄せた。仕方なく、ゆっくりとその場に腰を下
ろすと、左肩にアレーレを寄りかからせ、その体を支える。
「しばらく、動けぬな…」
 一人ごちて、苦笑いを浮かべる。アレーレだけならば、背負うなり、抱きかかえるなりし
て、運ぶこともできるだろうが、問題は、アレーレの背負っている荷物だ。二人分の数日分
の衣服、寝袋やランタンなどの、旅の必需品に加え、各地の土産物まで入っているそれは、
下手をすると、いや、確実にアレーレ本人よりも重い。荷物を置いていくという選択肢は、
頭の中から真っ先に消去された。例によって、無断で城から抜け出しているので、姉である
ルーン王女、ロンズ侍従長、ストレルバウ学術顧問への土産物は、欠かすわけには行かない。
忘れたりすると、ロンズの小言は倍になるわ、ストレルバウには、缶詰めにされて、延々と
講義を受けさせられるわと、ろくな事がない。
「特に姉上と来たら、丸一日、口を利いてくれぬからな。ま、一日しか保たないところが、
姉上らしいが。」
 つぶやきつつ、口元がほころんでいることを、ファトラは、自覚した。普段は、凛として
いる姉だが、自分にだけは、そういう子供っぽいところを見せてくれる。
「そんな顔をしなくとも、ちゃんと土産は、お渡ししますよ。」
 脳裏に浮かんだ、すねた顔の姉に向かって、ファトラは声をかけた。


 アレーレが回復するまで、特にすることもないので、ファトラは辺りを見回した。木々の
葉の間から、朝日のシャワーが降り注いでいる。気温が上がってきたおかげで、朝靄は、
すっかりと晴れ渡っていた。これで、少なくとも、方角が分からなくなることはないだろう。
足下には、先ほど、ファトラを転倒させた物体がある。よく見ると、その表面は平滑ではな
い。朝日に照らされたそれは、表面の微妙な凹凸を陰影によって浮かび上がらせていた。ふ
と、気になってファトラは、それに顔を近づけた。風雨にさらされて、ずいぶんと、削り取
られているようだが、表面にびっしりと刻み込まれているそれらが、先エルハザード文字で
ある事を、彼女は数分の観察によって、気づいた。
「このようなところに、先エルハザードの遺物が転がっていようとは…何とか、掘り起こせ
ぬものか。」
 先ほど殴ったときに、ほとんど位置が動かなかったところをみると、その大部分が埋まっ
ていると考えざるを得ない。素手や、その辺の落ちている小枝で掘り起こすのは、きつそう
であった。とりあえず、小枝を拾い、そのまましばし思案する。現在位置がわからない以上、
後で、準備を整えて来るというわけにも行かない。
 結局、この小枝で掘り起こすしかないのか、とファトラが思いはじめた頃、背後の草むら
が、がさりと音を立てた。
「何奴じゃ!」
 ファトラは、アレーレを抱き寄せ、素早く背後を向き直りつつ、叫んだ。ウサギなどの、
気の弱い小動物なら、それで逃げていくだろうし、他の動物でも、牽制にはなる。人間だっ
たなら、挨拶の一つでも、してくるだろう。この森に、危険な大型肉食獣がいたような記憶
はないが、万が一と言うこともある。警戒するに越したことはない。ファトラは慎重に相手
の気配を探った。
 と、次の瞬間突然、相手の気配が消えた。立ち去るなら、気配を消す必要などない。姿を
見せる気なら、なおさらだ。逃げるにしても、ある程度、距離を稼いでからでなければ意味
はない。となれば、答えは一つしかない。襲いかかってくる気なのだ。
 さすがに正気を取り戻したアレーレが不安そうな顔で、自分を見上げていることに気づき、
ファトラは、彼女に声をかけた。
「なんじゃ、その顔は。わらわが信用できぬか?こと、美少女を守る時のわらわは無敵だと
言うことを忘れたか?」
 アレーレの目から、不安の色が消え、信頼のまなざしに変わるのを確認してから、ファト
ラは目を閉じた。そして、感覚を集中させ、相手の気配を探る。
 やがて、自分たちの背後のに回り込みつつある微かな気配をファトラは捉えた。気配を消
して、背後から不意を突く。使い古されているが有効な手だ。いや、有効だからこそ使い古
された、と言うべきなのかもしれないが。
「どっちにしても、つまらぬ奴じゃ。手の内が読めてしまっては、なおさらな。」
 相手に聞こえないよう、小声でつぶやく。ファトラは、すでに勝利を確信していた。
 案の定、その数秒後に二人の背後の草むらで、相手の気配が爆発した。完全に背後をとっ
たと思っているらしいそれは、まっすぐにファトラに飛びかかってくる。
 流星のように尾を引いて、急接近してくる黄金色の生物に対し、ファトラは、右手に握っ
ていた小枝を振り向きざまにたたき込んだ。完璧なタイミングでカウンターとなったその一
撃によって、その生物は、再び、草むらの中に姿を消した。
 ファトラの隣で、悲鳴を上げかけたまま、固まっているアレーレがその場の象徴だとでも
言うように、しばらくの間、辺りを沈黙が支配する。なぜか、今まで聞こえていた小鳥のさ
えずりまで。ぴたりと止まっていた。
 そのまま放っておくと、永遠に沈黙が続くような気がしてきたところで、ファトラは、静
かに口を開いた。アレーレにではなく、草むらに消えた生物に対して。
「わらわに襲いかかってくるとは、どういう了見じゃ?」
「ジョウダン、ダッタノニ。」
 草むらから返事が返ってくる。ややあって、黄金色の毛並みと、ふさふさの尾をもった猫
が顔を出した。
「ウーラ?どうして、こんなトコに?!」
「ココ、ウーラノ、サンポミチ…ウニャ?」
 アレーレの疑問に答えていたウーラを、ファトラがつかみあげた。そのまま、視線が合う
ように自分の顔の正面にもっていく。
「わらわが迎撃しなかったら、どうするつもりだったのじゃ?」
「ヨロイニナッテ、アサノ、アイサツスル。キノウ、マコトニヤッタラ、ヨロコンデクレタ。
ファトラモ、ヨロコブト、オモッタ。」
「その時、誠は、こういう顔をしていなかったか?」
 そういってファトラは、眉をハの字にし、引きつった笑みを口元に浮かべた。
「ソウ、ソックリ。」
 笑顔を浮かべて、そう答えたウーラを見て、ファトラは、ウーラをつかんでいる手から力
を抜いた。
「イタイゾ!ファトラ。」
 地面で腰を打ったウーラが、抗議の声を上げた。
「バカ者っ!それは、怒るに怒れなくて、苦笑いを浮かべていただけじゃ!大体、お主も猫
なら、きちんと着地せんかっ!!」
「ソ、ソウナノカ?」
 ファトラの叱責に気圧されて、怖ず怖ずとウーラが聞いてくる。
「当たり前じゃっ!罰として、そこのくぼみの中央にある物を掘り出して参れ!」
 ファトラはそれを指さして、ウーラに命じた。どちらにしろ、ウーラに掘り起こさせるつ
もりだったが、罰というきっかけができたのは好都合というものだ。
 ウーラは、渋々と言った様子で、その物体の発掘を始めた。
(誠の奴は、小奴を甘やかし過ぎじゃな。叱るときは、きちんと叱ってやらんと小奴のため
にならん。ついでに先程、ちゃんと着地できなかった所から見て、反射神経も鈍っているよ
うだしな。)
 ウーラが黙々と発掘作業を続けているのを見ながら、ファトラは、心の中で、そうつぶや
いていた。

第1章に続く

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