リリィと戦ったあの夜から数日。ロシュタリア王宮はいつもと変わらぬ静けさを取り
戻していた。―少なくとも表面上は。兵士達には数日前までのぴりぴりした雰囲気はも
はや無い。もっとも、それより以前のようにだらけた様子の者もいないが。
(もし、そんな輩がおったら、即刻叩き出してやるがな。)
ベランダから下を眺めつつ、ファトラはそんなことを思っていた。頬を撫でていくそ
よ風を心地よく感じながら、ベランダの柵に身を預ける。平和とはこういうことを言う
のかも知れない。
(今、この場所はとても心地よい。じゃが、もし、突然この柵が消え失せたとしたら?)
心地よさに気を許し、周囲への注意を怠って安穏と貪っていると、気づいたときには
取り返しのつかないほど壊れてしまっている―そんな、脆さと不安定さを持ったもの。
そこでファトラは視線を上げた。視界一杯に広がった青空に浮かんでいるのは、午後
の日差しを惜しみなく振りまいている太陽、その日差しを遮る術もなく、転々としてい
る白い雲、そして―
(神の目…)
ロシュタリアが古の時代より受け継いできた最終兵器。同盟の無敵を保証する切り札。
バグロムの脅威に晒されてきた国々はその庇護を求めて団結してきた。だが、バグロム
が壊滅し、組織だった侵攻が収まった今となっては、それは希望の対象から恐怖の対象
になりつつある。
(とんだ笑い話じゃ。)
神の目は最初から恐怖の対象だった。聖戦の伝承を聞けばそんなことは誰でも判って
いたはずだ。それを今更やっと気づいたとでも言うのか?
(神の目への恐怖を姉上に転嫁して抹殺しようなどと…勘違いも甚だしい。神の目の禍
々しさを最も知っているのは実際に使った妾と姉上に他ならぬ。)
「ファトラ様。」
思考の迷路を彷徨っていたファトラの心はその呼びかけで現実に引き戻された。ベラ
ンダの入り口、つまりは部屋の窓辺にいるであろう声の主に振り返る。
「アレーレか。どうした?」
「フリドニアから、ファトラ様に使者が参られたそうです。」
「ようやく参ったか。空いている謁見の間に通しておけ。」
待ち望んでいた者が来たことに、陰に傾いていた心に光が射してくるのを感じながら、
ファトラはアレーレにそう告げた。
「はい、わっかりましたぁ!」
右手を挙げて即答すると、彼女はいつも通り、ぱたぱたと走り去っていた。
謁見の間に入ると、すぐさまロンズが横についてきた。部屋の中を見回すとかなりの
数の衛兵が配されている。張りつめた空気の中、ファトラは上座のクッションに腰を下
ろした。そして、視線を部屋の中央に向ける。それを受けて、その視線の先にいた少女
が恭しく礼をしてくる。
「フリドニア大使・コモン=ド=フレアが娘、フレイア=ド=フレア馳せ参じました。」
緊張した面もちのその少女を軽く観察する。長い赤みがかった金髪を二つにわけて編
み、それを背中で一つにまとめている。ボディチェックを受けたためだろう、装飾品の
類は一切身につけておらず、服もこちらの用意した、服とは名ばかりの布きれだ。その
せいで胸の辺りが窮屈そうではある。そこで少し気になって目だけで兵士達を見回した
がそこを注視しているような不届き者はいなかった。
「ロンズ。」
「はっ。」
ファトラの呼びかけの意図を察して、ロンズはすぐさま、衛兵の一人に合図を送ると、
ややあって、二人の兵士に連れられてフレア卿が姿を現した。
「父上。」
フレイアが父であるフレア卿に呼びかけた途端、彼の目から大粒の涙が溢れ出した。
そしてそのまま崩れるようにその場に膝をつく。フレア卿を立ち上がらせようとする衛
兵をファトラが手で制すと、フレア卿は嗚咽混じりで娘に頭を下げた。
「すまぬ、フレイア…こんな事になって…しまって…」
両手をついて、土下座のような格好の父に、フレイアは歩み寄り、その肩に手を置い
た。顔を上げた父の顔に微笑み返しながら彼女はこうつぶやいた。
「私は父上が無事なだけで十分です。あ…」
彼女のつぶやきが終わるか終わらないかの内にフレア卿は娘を抱きしめていた。後は
ただ、『すまぬ、すまぬ』の繰り返しだった。
「そろそろよろしいか?フレア卿。」
2,3分―時間を計ったわけではないのであくまで主観に過ぎないが、父娘の抱擁を
眺めてから、ファトラは口を開いた。二人がこちらに向けて姿勢を正したのを確認して
から続ける。
「ロシュタリアの総力を挙げて調査した結果、国境からやや離れたあたりの街道側の崖
下から、フレア卿の従者二名の遺体が発見されました。恐らくその近辺で入れ替わって
いたのでしょう。そして、催眠術でフレア卿に自分たちを従者だと思いこませた。つま
り、フレア卿は利用されただけと言うことになる。」
厚い暗雲に覆われているかのような影が落ちていたフレア父娘の表情に、一筋の光が
射したかに見えた。だが、それはファトラが息継ぎをする一瞬の間のことでしかなかっ
た。
「しかしながらこのロシュタリア王宮に暗殺者を招き入れた事実に変わりはない。それ
に対する償いはしてもらわねばなりません。」
フレア卿の顔に苦しげな表情が浮かぶ。だが、視線を逸らすことだけはしなかった。
ただ、ファトラの次の言葉を待っている。フレイアもその横で父に下されるであろう裁
きを、緊張した面もちで待っていた。自分の次の一言がこの二人の命運を決める、ファ
トラは自分にそのことをはっきりと自覚させるために一呼吸置いた。
「…とはいえ、フレア卿には今まで我がロシュタリアとフリドニアの友好関係に多大な
貢献をしていただいている。我が国としてもあなたの失脚は望んでいません。そこで、
御息女を駐在大使としてここに置いていってもらいたい。いかがですか?」
フレア卿の顔に驚愕の表情がありありと浮かんでいた。利用されたとはいえ、友好国
の王族の命を危険にさらしたのだ。本来ならば失脚はおろか、死罪を申し渡された上、
フリドニアにも莫大な賠償請求がなされてもおかしくない。となれば一族郎党もただで
は済まないはずだった。それが娘一人を差し出すだけで済むというのなら、破格の待遇
どころではない。
「本当に、本当にそれでよろしいのですか?」
未だに信じられない、と言った表情でフレア卿が問い返してきた。それに対して、フ
ァトラは少し眉を寄せた。
「御息女を犠牲にして自分の保身をはかる事が出来るのがそんなに嬉しいのですか?」
「い、いえ、決してそんなことは!」
フレア卿が慌てて声を上げる。その彼の前にすっと、フレイアが割り込んだ。
「父の罪がそれで許されるのなら私は喜んでお受けいたします。」
フレイアは、胸に右手を当ててファトラにそう告げると、背後の父に振り返った。
「父上、父上がそんな方でないことは私が一番知っています。それに、」
ちらりとこちらを見てから、フレイアは続けた。
「他国ならいざ知らず、ロシュタリアなら酷い扱いはされないはずです。」
「フレイア、すまぬ…」
フレア卿が再び娘を抱き寄せて―本人はそのつもりだったろうが、彼の方が背が低い
ので抱きついているように見えるが―そう言うと、フレイアも彼の背中に手を回した。
「では、しばらく二人きりにして差し上げますので、ごゆっくりと話をして下さい。」
取引が成立したと判断して、ファトラは立ち上がり、小声でロンズに指示を出す。
「終わったら、フレア卿には即刻お帰りいただく。余り滞在期間が伸びるとフリドニア
が不審に思うでな。娘の方は妾の部屋に。」
「はっ。仰せのままに。」
ロンズの返事にうなずいてからファトラは謁見の間から退出した。
フレア卿の処分がこのような物になったのには、もちろん訳がある。
リリィ達が王宮に侵入するのに何故わざわざフレア卿を利用したのか?確かに親善大
使ならば、その従者への入城時のチェックも謁見時の警戒もはある程度甘くなっている。
だが、リリィ程の使い手ならば当然護衛もいたであろうフレア卿一行を襲って入れ替わ
るよりも、もっと簡単な方法があったはずだ。
となると、どうしてもフレア卿とフリドニアに罪を被せたかったことになる。フレア
卿を失脚させては、リリィの雇い主の目的を部分的とはいえ達成させてしまうことにな
る。それだけは避けたかった。かと言って無罪放免にもするわけには行かない。先程も
言ったように姉や自分の命を危険にさらしたことに変わりはないのだ。ロンズを始め、
数人の衛兵も重傷を負っている。その罪は償ってもらわねばならない。
「フレア卿が娘を犠牲にしても何とも思わないような輩だったらそれでも良かったんじ
ゃがな。」
自室で大きめのクッションに背を預けてファトラは何とはなしにつぶやいた。それに
対し、右腕にしがみつくようにして抱きついている少女が反応する。
「父がどうかしましたか?」
「…起きておったのか。」
左手で少女―フレイアの赤みがかった金髪を撫でつつファトラは続けた。
「娘思いの父を持ってそなたは幸せじゃ、と思ってな。」
「とんでもありませんよ!」
フレイアが突然起きあがって顔を突きつけてきた。
「心配してくれるのはありがたいんですけど、それが度を過ぎるとたまったもんじゃあ
りません。外に出るときなんて護衛が何人もついてるから、好きなとこに行けないし、
危ないからって料理させてくれないし、俗なことに毒されるからって小説も読ませてく
れないんですよ。過保護にも程があるでしょう?」
「ま、まあそうじゃな。」
背のクッションに阻まれて後ずさりも出来ず、ファトラは曖昧な返事を返した。それ
に満足したのかフレイアはやっと顔を遠ざけた。代わりに目をキラキラさせながら続け
る。
「そんな中、舞踏会でファトラ様にお会いした時、私の受けた衝撃と言ったら…私なん
か比べ物にならないほどの身分のお方があんな自由奔放に振る舞ってらして。あのとき
からお慕い申し上げてました!」
「そ、それは昨年、無礼者に天誅を食らわそうとして、ちょっとフリドニア鹿鳴館の9
割ほどを破壊した時の事かな?」
冷や汗をたらしながらファトラが問いかけるとフレイアは力一杯うなずいてきた。
男性参加者全員が重軽傷を負ったのに対し、女性全員が無傷だったというこの事件は
かなり有名な話だったが、真相は今でも謎と言うことになっている。というより、誰も
真相を語りたがらないのだが。それはさておき―
「ファトラ様は私の願いを叶えて下さいました。今度は私の番です。」
それを聞いて少し胸が痛んだ。自分は彼女を救ったわけではない。たまたま利害が一
致したからこうなったのであって、今回のことがなければ恐らくは、気まぐれに逢うだ
けで個人的な事には一切関わらない、そんな関係だったろう。
「ファトラ様?」
フレイアに怪訝そうな表情で問いかけられて、ファトラは我に返った。
「しばらくは無理じゃろうが、ロンズを説得して外出できるようになったら情報収集を
手伝ってもらうとしよう。妾もしばらく城内から出られそうにないからのう。」
誠をけしかけた手前、誠を影武者にしての外出は当面出来ない、となると各地にいる
愛人達からの草の根レベルでの非公式情報も得にくくなるわけで、自分の代わりに情報
を収集してくれる人材が必要だった。アレーレに任してもいいが、自分抜きで楽しまれ
るのはちょっとしゃくに障る。
「はい、頑張ります!」
しばらくは立場上、家よりも余程厳しい監視が付くのであろうことを判ってるんだか
いないんだか、やたら元気のいい声でフレイアが答えてくる。ただ、ロシュタリア王宮
という目新しい場所に来て嬉しがっているだけかも知れないが。もちろん監視は極力、
彼女に気づかれないようにと言いつけてはあるが、なるべく早く監視を解除してやるつ
もりでもある。
今、直面している問題のほとんどは今回の事件の首謀者が判明しなければ解決しない
事ではあったが、それもそう遠くないはずだ。リリィは相変わらず黙秘を続けているら
しいが、リリィともう一人の男の装備品や、暗殺技術から少しずつ情報が集まりつつあ
る。それにフリドニアを陥れようとしたことなどを総合すると自ずと答えは見えつつあ
った。次の同盟会議で鎌を掛けるのもいいかも知れない。
「フレイア。」
「はい?」
「神の目をどう思う?」
「どうって、どういうことですか?」
フレイアが質問の意味を取りかねて、困惑した顔で問い返してきたので、ファトラは
こう言い直した。
「ロシュタリアはその気になれば、バグロムはおろか、エルハザードの全土を滅ぼすこ
とも出来るのじゃぞ?」
「でも、ファトラ様はそんなことなさらないでしょう?」
フレイアが即答してきたので今度はファトラが問い返した。
「どうしてそう思う?」
「だって、ファトラ様のお好きなご旅行が出来なくなりますよ。」
それを聞いて、ファトラは一瞬動きを止めた。フレイアがそれに気づいて首を傾げて
問いかけてくる。
「あの、私、何か変なこと言いました?」
「はは、は…いやすまん。確かにその通りじゃ。エルハザードを滅ぼしてしまっては旅
なんぞ出来ん、たとえ出来たとしても一面の荒野なぞ面白くもないしのう。」
まさかこういう答えが返ってくるとは思わなかった。だが、自分でもそれが理由なの
ではないかとすら思えてくるような答えだ。今度誰かに問われたらそう答えよう。ファ
トラはそう思った。
遠回しな言い回しで腹の内のさぐり合いなどをしているから思考がどんどん陰険な方
向に向かうのだ。何を言っても同じなら、いっそのことこのくらい単純明快な答えの方
がいいのかも知れない。馬鹿馬鹿しくて暗殺などという考えが出てこなくなる程の。
「よい答えじゃ。参考になったぞ。」
フレイアの頭をくしゃくしゃと撫でながらファトラは天井を仰いだ。そして、つぶや
く。その遙か上空にあるはずの神の目に。
「妾達は先エルハザード文明のようには行かぬ。たとえ、人間が愚行を繰り返さずには
いられない存在なのだとしてもな。
そのつぶやきが神の目に届いたかどうか、そんなことはどうでもいい。重要なのは、
その言葉を無意味な物にしないことなのだから。
(あとがき)
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