我が城で踊れ潜入者 


第六章 予定通りの暗殺者(後編)



 ロシュタリア王宮には謁見の間として使用されている広間がいくつかある。と言って
も相手の身分によって使い分けていると言うことはなく、ただ、相手の人数を考えて適
切な広さの部屋に案内しているに過ぎない。ひとえに相手の身分によって対応を変える
ことを好まないルーンの人柄による物だ。だから、部屋の中の装飾もどれが劣っている
と言うこともなく皆、一流の職人の手によって手入れされた最上級の物だ。たとえ、こ
の部屋がその中でも最も小さい部屋だとしても。
 その広間の一番奥、一段高くなった壇上のクッションの上にあぐらの形で座して、ファ
トラは広間の中を見回していた。出入り口は二つ。自分がついさっきまでいた控え室
へと続く扉と正面にある両開きの扉。採光のための窓は天井近くにあり、空を飛ぶか柱
をよじ登るかしない限り手は届かない。最も、手が届いたところで、はめ殺しの窓を割
らなければ出入りなど出来ないが。壁際には等間隔で棍を手にした衛兵が並んでいる。
心なし表情が硬い者も見受けられるが、皆、一様に正面を凝視したまま微動だにしてい
ない。その列の一番手前、目の前にいるのはロンズだ。他の衛兵とは違い、棍こそ持っ
ていないが、その腰には円月刀がくくりつけられている。普段帯刀している物より二周
りは大きい代物だ。こちらには背を向けているため表情こそ見えないが、恐らく正面の
扉を凝視しているのだろう。鍛え上げられた背中から並々ならぬ気迫が漂ってくる。
「ロンズ、今からそんなに気を張っていては疲れぬか?」
 なんとなく声をかけると、ロンズはまるでこれが見本だというばかりの正確な動作で
回れ右をし、全く淀みのない流れるような動作で片膝をついてから口を開いた。
「いついかなる時であろうと殿下をお護りするのが某、そして全ての衛士達の役目なれ
ば。特に今日この場に置いては一瞬たりとも気を抜くわけには参りませぬ。」
 どうやら一昨日、門番を投げ飛ばして叱責したのが相当応えたらしい。ロンズが実直
すぎるのはいつものことだが、今日は特に肩に力が入りすぎているように思える。
「気を抜けと言っておるわけではない。ただ、もう少し押さえた方がよいと申しておる
のじゃ。朝からその調子じゃから、そういうことに鈍い姉上ですら、そなたの様子が少
し変だなどと仰られておったぞ。」
「ルーン殿下がそのようなことを。このロンズ、まだまだ未熟にございます。」
 恐縮して更に頭を垂れるロンズに顔を上げるように言ってから、ファトラは自分が本
当にしたい質問を切り出した。
「姉上はどうしておられる?」
「執務室にて、書類に目を通しておられます。無論、警備は万全。ネズミどころか虫一
匹、近寄ることは敵いますまい。たとえ鬼神が相手であろうとも護りきって見せましょう。」
「その言葉、嘘偽り無きものと信じるぞ、ロンズ!」
「はっ!このロンズ必ずや実証して見せまする!」
 ロンズは力強く宣言すると、素早く立ち上がった。その姿には先程の様な気負いでは
なく、精錬された気迫に満ちあふれていた。
 ちょうどその時、正面扉の外から衛兵の声が響きわたった。
「フリドニア外交大使・コモン=ド=フレア様、及び従者二名、ご到着なされました!」
 ファトラがうなずくと、ロンズは再度礼をしてから正面扉に振り返った。
 それを受けて、扉の前の衛兵がゆっくりと扉を開く。
 扉が開ききると同時に、白髪混じりの髪をした小柄な壮年の男が、若い男と女を引き
連れ、赤い絨毯を踏みしめて進み出てくる。そして、あらかじめ置かれているクッション
の前まで来ると作法通り一礼してから挨拶を始めた。
「お忙しい中をこの私のためにお時間を頂き光栄にございます。ファトラ姫に於かれま
してはお美しさに更に磨きがかかられたご様子で誠に喜ばしい限り。」
 フレアはそこで、一旦言葉を切ると、ファトラの隣、空いたクッションをちらりと見
てから言葉を継いだ。
「失礼ではありますが、ルーン殿下はいらっしゃらないのでしょうか?」
 それに対して返答しようとするロンズを制し、ファトラはゆっくりと口を開いた。
「申し訳ない。姉上、いや、ルーン=ヴェーナス殿下はご気分が優れぬと言うことで今
日は伏せっておられる。今日の所は妾一人。姉上の代わりには役不足かも知れぬが。」
 それを聞いてフレアは慌てた様子で手を振りながら答えてきた。
「いえいえ、恐れ多い。ルーン殿下には改めてお見舞いの品など届けましょう。」
「お心遣い感謝いたしますが、心配はご無用。今日一日ゆっくりと休めば回復なさるで
しょう。どうぞ、お座り下さい。」
「では、失礼いたしまして。」
 ファトラの言葉に従って、フレアはクッションに腰を下ろした。従者二人はその後ろ
に立って控える。
 ファトラはそこで視線をフレアから従者に移した。初めに女の方を見る。布で口元を
覆っているので顔はよくわからないが、プロポーションはなかなかだ。普段なら後でこっ
そり口説きに行ったかも知れない。男の方は従者と言うには少し筋肉がつきすぎな気
がした。荷物運びばかりしているというなら別だが。必死に無表情を装ってはいるが、
表情が少し引きつっている所から見て、もしかしたら初めてなのかも知れない。
「いつもの従者が急病で、借り物の従者でございます故、少々ぎこちないところがある
かもしれませぬがお許し下さい。」
 ファトラが従者を興味深そうに見ているのを察して、フレアが説明する。 
「失礼。では早速本題に入りましょう。」
 従者の観察を止め、ロンズに目配せをしてからフレアに視線を戻す。
「しかしながら、その前に是非見てもらいたい物があるのですよ。」
「は。何でございましょう?」
 ファトラの言葉に虚をつかれ、軽い戸惑いを見せるフレアに、ロンズに指示を受けた
衛兵の一人が真新しい紙束を手渡す。その衛兵が定位置に戻るのを待ってからファトラ
は口を開いた。
「原文のままではあまりにも読みづらい故、書き直させていただきました。どうぞ、目
をお通し下さい。」
 戸惑いを隠せぬ、というより状況を把握しかねているらしいフレアだったが、それで
もファトラの言葉を受けてその書類に目を通し始めた。
 しばらく読み進めたところでフレアは顔色を突然変えた。と同時に取り乱した様子で
立ち上がり、声―叫び声に近かった―を上げる。
「ファ、ファトラ姫、こ、これは!?」
 それに対するファトラは極めて冷静だった。いや、ファトラだけでなくロンズを含め
衛兵達も全く微動だにしていない。あくまで冷静にファトラは言葉を紡ぐ。
「フレア殿。お座り下さい。そして全文に目を通していただきたい。話をそれからです。
これはロシュタリアのみならず、同盟首長国盟主代理としての言葉と受け取っていただ
きたい。」
 蒼白になった顔に大量の冷や汗を浮かべたまま、フレアはクッションに腰を下ろした。
どちらかというと腰が抜けてそれ以上立っていられなかった、というのが正解なのかも
知れないが。
 ともかくフレアが震える手でその書類に目を通し終わるのを確認してからファトラは
彼に問いかけた。
「出来る限り原文に忠実に清書するよう命じたのですが、どこか間違いがありましたか?
訂正があるのならお聞きしますよ。」
 丁寧な口調の中にありったけの感情を隠し味として―こんなに入れたらどう考えても
隠し味になってはいないという自覚はあったが―ファトラは更に付け加えた。
「それとも…姉上の代わりに妾を暗殺しますか?その暗殺計画書の手順通りに。」
「誤解…」
 腰が抜けたままなのか、立ち上がることも出来ず、フレアがその場で弁明を始めよう
とした時、それまで後ろに控えていた従者の内、男の方がゆっくりとフレアの前に進み
出てきた。それに対し、手近にいる衛兵が棍を構える。ファトラに近い者は男の行く手
を阻むべく、段の下に横一列に並び、扉に近い者は退路を断つべく囲みを作る。そして
ロンズはファトラの横に控え、いつでも抜刀できるよう剣の柄に手をかけた。
 しかし、男はそれを意に介そうともせず、一歩一歩絨毯に足跡を刻み続ける。
「止まれ、無礼者!!」
 五歩目、ついにしびれを切らした衛兵の一人が棍を振りかざして男に飛びかかった。
それに続いて―つられたと言った方が正しいが、更に二人が男に前後から襲いかかる。
前から二人、後ろから一人。だが、その攻撃は連携がとれているとはとても言い難かっ
た。この程度の突発的な突進はちょっと体術に自信がある者なら避けることは容易だろ
う。しかし、少しでも体勢を崩せば残りの衛兵達はその隙を見逃したりはしない。
 最初に飛び出した衛兵の棍が男の脳天めがけ振り下ろされる。だが、その数瞬後に響
いた音は棍が床を叩く音だった。それとほぼ同時にその衛兵の体が宙を舞い、後ろから
迫っていたもう一人の衛兵を直撃する。
「見えたか?ロンズ。」
 男から視線を逸らさずに横にいるロンズに囁くとロンズは即答してきた。
「突進してくる衛兵に対して一瞬の踏み込みで懐に飛び込む事で、棍の有効打撃範囲か
ら逃れると同時にカウンターを打ち込んだ訳ですな。ここからならよくわかりますが
、吹き飛ばされた本人はあの男の姿を見失っておったでしょう。」
 ロンズの話が終わる頃には残った一人も、男に無意味な攻撃を仕掛けて一撃で昏倒さ
せられていた。周りを囲む衛兵達からざわめきが漏れる。
「衛兵達ではまるで相手にはならぬようじゃのう。」
 再びロンズに囁く。
「某が行きましょう。ファトラ様はご避難下さい。」
「奴を止める自信がないのか?」
 ちらりとロンズに視線を投げかける。
「一命を賭してでも奴は必ず止めて見せましょう。ただ万が一と言うこともあります故。」
「ロンズ、妾はそなたを信頼しておる。故にここを動かぬ。そなたが倒れるときは妾の
命が尽きるとき。そう肝に免じよ。」
 ロンズは一瞬だけ困ったような表情を浮かべてから一言だけ告げてきた。
「万が一すら許されませぬか…」
 と同時にロンズはすらりと剣を抜き、男に向かって歩みだした。


 フレアはまだ、腰を抜かしたままクッションの上に座り込んでいる。女の従者の方は
フレアを落ち着かせようと座り込んで何か必死に話しかけているようだ。そして男の方
はこちらに向かってゆっくりと進んでくる。周りに倒れている衛兵は5人になっていた。
 当面の敵はこの男一人。場合によっては女の方も相手にせねばならぬだろうがそれに
気を取られていては思わぬ隙を生むこととなる。ロンズはここまででそう判断を下して
いた。
 衛兵達に目配せしてフレアと女から目を離さないように指示を出してから、男と向き
合う。
 衛兵達の倒され方からして、相手はこちらの攻撃を避けてからその一瞬の隙をついて
渾身の打撃を打ち込んできている。武器とは自分の腕の延長。そのことを理解し、実践
できるまで鍛練を積んでこそ、その武器を使いこなしていると言えるわけだが、そのレ
ベルに達してない者はこの手の輩にとっては格好の餌食となる。
 かといって武器を捨てて素手で挑んでも敵うわけがない。相手は徒手格闘の専門家な
のだから。ならばどうするか?大振りを捨て、小技で勝負する、それも一つの手だろう。
だが、それは相手も考えに入れている筈だ。何か対抗手段を講じているかも知れない。
 予想できない動きより予想できる動きを制す。それがロンズが最終的に出した結論だった。
「はっ!」
 気合いと共に床を蹴り一気に間合いを詰める。男は予想通り、こちらを迎撃すべく、
前に踏み込んできた。袈裟懸けの軌跡を描いた白刃が男の体を紙一重でかすめていく。
 ロンズの鋭い斬撃を受けた男の服が、剃刀で斬ったかのように綺麗に切り裂かれる。
だが、男の体自体は皮一枚が切れたに過ぎなかった。剣を振り切ったロンズに渾身の一
撃を打つべく、男がもう一歩踏み込んでくる。
「がぁっ…」
 短い悲鳴と共に鮮血が絨毯に飛び散る、と同時にロンズは吹き飛ばされて床を転がっ
た。段の前の衛兵にぶつかりやっと止まる。
「ロンズ!」
 悲鳴のようなファトラの声で霞かけた意識を呼び戻されて、ロンズは強引に立ち上がっ
た。床に打ち付けられた体の所々が脳に痛みを訴えている。しかしそれなど問題にも
ならないほどの激痛が左脇腹から発せられていた。どうやら肋骨が2.3本いかれたら
しい。奥歯をかみしめて、その激痛を押し殺し、ロンズは正面を睨み据えた。
 男は、血溜まりの中に立っていた。剣に脇腹を貫かれたままで、なお。
 あの瞬間、ロンズが突き入れた剣だった。無論、刃を返していたのでは到底間に合う
タイミングではない。剣を振り切った瞬間、開いていた左手で剣の柄尻を打ち、てこの
原理で刃を跳ね上げたのだ。結果は相打ちではあったが、素手と剣とではそのダメージ
差は歴然だ。
「その、傷では、貴公、はもう、終わり。あき、らめよ。」
 あの傷で立っていること自体驚異的なことだが、恐らく精神力だけで立っているのだ
ろう。ロンズはそう踏んで、あえてそれを言葉にした。
「がああああっ!!」
 その言葉に反応したのか、男は突然雄叫びを上げながらこちらに突進を開始した。血
しぶきを床にまき散らしながら。それは脇腹から剣が抜け、床に落ちると更に激しさを
増した。男の動きもそれを機に加速する。
「行かせん!」
 自分の言葉が逆効果になったことに後悔しつつ、ロンズは傍らの衛兵の棍を奪い、男
に向かって突き出した。
 棍は男には当たらなかった。男がかわしたわけではない。脇腹の激痛のためにロンズ
自身が狙いを外したのだ。致命的ミスを呪う間もなく背中に衝撃を感じる。ロンズの背
中を踏み台にして男が飛んだのだ。
 つんのめって回転する視界の端にファトラに飛びかかる男が映る。
「ファトラ様!!」
 思わず絶叫する。何とか受け身をとって段の方に向き直る。しかし、それ以上動くこ
とは出来なかった。激痛が更に増していたのだ。今の衝撃で肋骨が完全に折れてしまっ
たのだろう。


 血走った目をした男が獣のごとき形相で自分に迫ってくる。ロンズを踏み台として、
衛兵の作り出した人垣を乗り越えたその男と自分の間には障害物は何一つ無かった。
 不意をつかれた衛兵達はまだ、それに対する行動を開始してすらいない。自分の身を
守れるのは自分しかいなかった。
 立ち上がって迎撃しなければならない。普段ならそんなことを考えるよりも先に体が
動いたはずだ。しかし、今日は体が動かなかった。いや、『動けなかった』という方が
正しい。
 ファトラの絶望を具現化したとでも言うかのように、男の姿が徐々に大きくなってく
る。時間感覚がおかしくなっている、それははっきりと自覚できた。全てがスローモー
ションに見える。自分の体の動きもゆっくりになっているのだろうか?ふとそう思って、
すぐに否定する。自分の体はぴくりとも動いていない。
「姉上…」
 脳裏に姉の姿が浮かぶ。
「妾が死んだら…」
 妾が死んだら?…その瞬間、絶望に埋め尽くされそうになった心を別の物が埋め尽く
した。
「誰が姉上を護るというのじゃ!?」
 叫びと共に全身に力がみなぎる。動かなかった腕が腰が足が、全身が活動を始める。
時間感覚が元に戻る。男はすぐ目の前まで迫っていた。
 立ち上がる勢いをそのまま右腕に載せて突き上げる。まともに体を狙ったのではリー
チ差で勝てない。狙うのは男が振り下ろしてくる腕そのもの。命中率を上げるため拳で
はなく、掌底でその腕を払う。言うのは簡単だが実行するには卓越した動体視力が要求
される。ファトラにしてみても、どちらかと言えば一か八かの賭に近い手段だったが、
体勢が整わないまま、ここまで接近されてはそうせざるを得なかった。
 ばちん、と言う音がその賭が成功したのを証明すると同時に男が体勢を崩してファト
ラの左側に倒れ込む。そこにやっと走り込んできた衛兵三人が、棍で、その首を押さえ
こんだ。
 一旦倒れてしまえば、もう男には立ち上がる余力は残っていないようだった。
 安堵が足腰の力を奪っていく。だが、ここで座り込むわけにはいかない。この場にルー
ンがいない以上、自分がロシュタリアの代表なのだから。不様な姿を見せる事は出来
ない。
 正面に向き直り、きっ、と前を見据える。フレアは力無く座り込んだままだった。顔
色は蒼白を通り越し、真っ白になっている。女の従者の方は怯えた様子でフレアの服を
握りしめ、こちら、と言うより倒れた男を呆然と見つめていた。その周りを棍を構えた
衛兵達が取り囲んでいる。
「フレア殿。」
 自分の呼びかけに、それまで宙をさまよっていたフレアの目がこちらに固定されたこ
とを確認してから、ファトラは言葉を継いだ。
「フリドニアでも親ロシュタリア派の筆頭と言われている貴方がこのようなことをなさ
るとは。あの計画書を目にしてもこのファトラ、にわかに信じ難かったのですが、ここ
まではっきりとした証拠があっては、もはや弁明の余地はありませぬな。」
「ファ、ファトラ様!違います!!こ、これは…」
「往生際が悪いですぞ、フレア殿。動機その他についてはフリドニア王から返答が届く
までの間にたっぷりとお聞きします。もちろん、このことについては緊急に同盟会議を
開き、同盟間の結束に関する重要議題とさせていただきます故、それまでフレア殿の身
柄は拘束させていただきます。」
 慌てて弁明しようとするフレアの言葉を遮り、ファトラは有無を言わせずにそう言い
放った。フレアの体がへなへなと床に崩れおちる。
「連行せよ!」
 ファトラの命令を受けて、衛兵達がフレアと女従者を立ち上がらせて連行していくの
を見送ってから、ファトラは衛兵の方を借りて何とか立ち上がっているロンズに声をか
けた。
「大丈夫か、ロンズ?ここはもう良いから早く治療して参れ。」
 ロンズはそれを聞いて、すぐに床に手をつき、床に額をこすりつけるほど顔を伏せる。
「申し訳ありませぬ…ファトラ様を危険にさらしてしまうなど、このロンズ、恥ずべき
大失態を演じてしまい申した。死してなお償い切れませぬ…」
「そなたが奴にあれほどのダメージを与えておらなんだら、妾は今頃、こうしてはいら
れなかったであろう。そなたにはまだ、姉上と妾を護り、補佐してもらわねばならん。
死など、もってのほかじゃ。それは妾の信頼を裏切ることに他ならぬ。」
 床に伏せたままのロンズの前にしゃがみ込み、その肩に右手で触れて、語りかけると
ロンズはようやく顔を上げた。無骨な顔が濡れてぐしゃぐしゃになっていた。汗なのか、
傷の痛みに耐えていることによる脂汗なのか、それとも涙なのか、もしかしたらその全
てが混じり合っているのかも知れない。
「判ったら、早々に治療して参れ。これは命令じゃ。」
「…命令には従わねばなりませぬな。」
 ロンズはそういうと衛兵に肩を借りやっと立ち上がると、ゆっくりと歩き出した。
 血塗れで倒れていたあの男も既に拘束され、更に担架に縛り付けられている。あの深
手では既に失血死しているかも知れないが。
 それぞれがそれぞれの目的の場所に向けて部屋を出ていく。ファトラも控え室に続く
扉に足を向けた。ふと右腕を挙げて、掌と服を見つめる。所々に血が飛び散っていた。
無論あの男の血だ。だが、それが自分の血であったかも知れなかった、そう思い当たっ
て、ファトラの口から無意識につぶやきが漏れた。
「だめじゃ。これではだめじゃ…」
 それは誰に対して、と言うことではなく。多分、自分自身への言葉だった。  


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